リポート(3)
お茶の歴史を九州に巡る〈資料編〉
前回に引き続き、今回は2012年5月13日〜17日の研修旅行のためにまとめた資料です。前回のとき〈紀行編〉も書くと予告したにもかかわらず、いまだ書かずじまい。で、今回の〈資料編〉が先に出てしまいました。が、〈紀行編〉も2篇とも必ず書きます。しばらくお待ちください(そもそも、お待ちになっている方がいらっしゃるかどうかわかりませんが、少なくとも私自身は待っております)。
中國茶倶樂部の研修旅行では、沖縄に続く日本国内2箇所目、九州に初上陸します。昨春の“お茶の伝播を俯瞰する旅”の〈中国編〉と対を成す〈日本編〉です。もっとも、第3部として、〈韓国編〉も予定しておりますが。お茶のみならず磁器も含め、その関係をみるうえで、江南(上海を中心とする江蘇省、安徽省、浙江省の一帯)、九州と並び、朝鮮半島も絶対に外せませんから。
さて、その九州ですが、今回は福岡、佐賀、長崎の3県にまたがり、博多(福岡)を起点に脊振山・霊仙寺(佐賀)、八女(福岡)、佐賀県立九州陶磁文化館、有田、伊万里、嬉野(佐賀)、平戸・千光寺、出島(長崎)、博多・聖福寺(福岡)のルートを採ります。
★栄西と日本最初の茶園
まず、博多。ここは栄西ゆかりの地です。栄西は、いうまでもなく、臨済宗の開祖であるとともに、お茶を日本に普及、定着させた人物です。1168年の5カ月間、1187年〜1191年の4年間、と2度にわたり、当時は南宋の時代だった中国へ渡航しています。目指した港が昨春に訪れた浙江省南部に位置する寧波でした。2度とも博多から出帆し、最初の入宋から帰り着いたのも博多でした。そもそも、渡航前後も博多に滞在しています。旅を前にして航海の無事を祈願したり、中国の情報を収集したりしていますし、2度目の入宋から戻ったあとの1195年には聖福寺(しょうふくじ)を建てています。
2度目に帰り着いたのは平戸でした。お茶に関していえば、その年、同地に冨春庵を結び、日本初の座禅修行を行ないつつ、中国から持ち帰ったお茶の種ないしは苗により、お茶の栽培をはじめた、とされます。その後、1193年に千光寺を建てました。冨春庵の跡地が千光寺で、それにちなんで茶園は冨春園と呼ばれるようになりました。ちなみに、「冨春」とは、『日本名茶紀行』(松下智/雄山閣)に「栄西が中国滞在中常に眺めていた浙江省の大河、富春江(銭塘江)を懐かしんだものであろう」とあります(現地の石碑は「冨」、同書は「富」)。
また、福岡県と佐賀県にまたがる脊振山(せふりさん)でも、同時期にお茶の栽培がはじまったようです。平戸から同地の霊仙寺(りょうせんじ)に移り住んだ栄西が、お茶の種を播いたか苗を植えたかした、といわれているのです。
つまり、日本で最初の茶園は、平戸説と脊振山説とふたつあるわけです。ただ、順番から考えると、先に着いた平戸のほうが優位にある気はします。さらに、同じく『日本名茶紀行』によれば、お茶の種は夏の高温期を過ぎると発芽力が失われてしまうので、栄西の帰国が7月であることから、「平戸の富春庵の裏山に播いたことが理にかなっていると考えられる」とし、「が、それを裏付けるものは、心当たりが無い」と続けています。苗だったら違うのでしょうか。
ところで、栄西(明庵栄西禅師)の読みですが、いろいろ調べてみると「えいさい」「ようさい」「えいざい」「ようざい」の4通り見られました。後者ふたつは連濁(二語が複合して一語になるとき、後側の語頭の清音が濁音に変化すること)現象のせいでしょう。
では、「えいさい」か「ようさい」か。結論は、どちらでもよい、ということにあいなりました。
「栄」の元の字は「榮」、漢音が「エイ」、呉音が「ヨウ」。「西」は漢音が「セイ」、呉音が「サイ」。呉音が主に仏教用語として使われることを鑑みれば、「ようさい」が妥当でしょう。ちなみに「明庵」の読みは「みんなん」で、「明」の漢音は「メイ」、呉音は「ミョウ」、唐音は「ミン」、「庵」は漢音、呉音とも「アン」。「なん」は「ミン(n)」と「ア(a)ン」で「ナン(nan)」になる連声(前の音節の子音と後の音節の母音が同化すること)現象を起こしたものです。それはそうとして、なぜ、「ミョウ」と「アン」の呉音で「みょうあん」にならないのでしょうか。
栄西が開山した聖福寺(福岡)、寿福寺(鎌倉)、建仁寺の(京都)うち、公式ウェブサイトを持つ聖福寺と建仁寺では「ようさい」としています。臨済宗の開祖ですから臨済宗では「ようさい」と読むのは当然でしょう。なお、栄西の孫弟子に当たる道元が開祖である曹洞宗では「えいさい」と読むとか。また、一般的な読み方に基づいても「えいさい」が普通でしょう。
臨済宗の開祖である点を尊重して「ようさい」を使っても、一般的な読み方の「えいさい」を使っても、どちらでも正しく、間違いではないということです。
これまで栄西が開山した寿福寺と建仁寺を観てきたのですが、建立順でいうと、千光寺(1193年)、聖福寺(1195年)、寿福寺(1200年)、建仁寺(1202年)となり、九州からはじまっていったん関東に跳び、最後に都である京都に到っていることがわかります。時代ゆえに、とりわけ政治やら宗教やらの権力者との確執に、手を焼いたであろうことが窺われます。
★八女の玉露と隠元禅師の煎茶
八女。栄西がもたらしたお茶は日本全国へと拡がっていきます。九州各地にも茶園はできていきました。福岡県で生産されるお茶は、「八女茶」「福岡の八女茶」の呼称で特許庁から認可を受けた「地域ブランド」となっています。宇治(京都)、岡部(静岡)と並ぶ玉露の3大産地で、2008年の生産量は宇治140トン、岡部12トンに対して八女は99トンと第2位を占めます(伝統製法による。後述)。
そうしたなか、近年、三重県産の玉露と称するお茶が問題になっています。2008年に三重県産の玉露生産量が132トンに上り、前年の3トンから一気に44倍という脅威の伸びを示したのです。これは2週間弱、茶葉に直接おおいを被せてつくったものを玉露と称して生産したためです。その製法がかぶせ茶に類似していることから、福岡や静岡の業者が異議を申し立てています。
玉露、かぶせ茶、そして、抹茶の原料となる碾茶の三種類は被覆栽培でできるお茶ですが、それぞれ製法が異なります。『日本茶検定公式テキスト 日本茶のすべてがわかる本』(日本茶検定委員会/農文協)によれば、「玉露と碾茶は茶園全体に棚を作って被覆して育て、遮光した中で葉を開かせます。まず、新芽が1〜2枚開き始めた頃から、遮光率55〜60%の覆いを掛けます。7〜10日後、さらに強力な覆いをして遮光率を95〜98%にします。被覆をし始めて20日後くらいが、摘採に丁度良い時期となります」。それに対し、かぶせ茶は棚式ではなく、直接被覆でもよく、遮光率が低く、その期間が短いのです。そもそもおおいを被せるのは、遮光することによってテアニン(甘み)とカフェイン(苦み)が増し、カテキン(渋み、苦み)が減るので、お茶の品質を上げるのが目的です。
手間も品質も価格も違うのに、3大産地の伝統製法と三重の簡易製法、どちらでつくられても同じく玉露と呼べるのか、という問題です。
農林水産省の統計では、2008年までは「玉露」「かぶせ茶」「碾茶」を分けて集計していますが、2009年以降はその3種類を合わせて「おおい茶」として集計しています。そして、2008年の統計では三重の簡易製法の玉露も「玉露」に分類しているため、その場合だと前述のランキングは第1位宇治(140トン)、第2位三重(132トン)、第3位八女(99トン)と変わります。また、「おおい茶」のランキングとしては2009年が第1位三重(1560トン)、第2位宇治(1130トン)、第3位八女(563トン)、2010年が第1位三重(1390トン)、第2位宇治(1070トン)、第3位八女(586トン)となります。
このように、伝統製法によるランキングにしろ、「おおい茶」によるランキングにしろ、八女はトップではないにもかかわらず、「“伝統本玉露”の生産量日本一」と称されます。なぜでしょうか。
「おおい茶」については上述の通りですから、それは、宇治茶の定義によります。社団法人京都府茶業会議所は2004年3月25日、「宇治茶は、歴史・文化・地理・気象等総合的な見地に鑑み、宇治茶として、ともに発展してきた当該産地である京都・奈良・滋賀・三重の四府県産茶で京都府内業者が府内で仕上げ加工したものである。ただし、京都府を優先するものとする」との定義を発表したのです。
つまり、純粋に八女産のお茶で、伝統製法に基づいてつくられているため、真の意味での「“伝統本玉露”の生産量日本一」ということになるわけです。
煎茶は、宇治に住む、あの、お茶漬けやお吸い物で知られる「永谷園」の創業者の先祖である永谷宗円が、1738年に考案しました。とはいえ、その前段に、あの、インゲン豆で知られる隠元禅師の影響がみられます。というのは、来日に際し、煎茶の原型を携えてきたからです。永谷宗円もその喫茶の文化に触れた結果というわけです。抹茶法から煎茶法への転換期にあたるわけでもあります。このほか、件のインゲン豆をはじめ、スイカ、レンコン、タケノコ、あるいは、美術、建築、印刷などの技術ももたらしています。
隠元禅師は明(1368〜1644)を代表する臨済宗の僧で、福建省にある黄檗山萬福寺の住持(住職)でした。日本からの度重なる招聘に応じて1654年(1616〜1911の清とかぶる)、63歳のときに来日。1661年、京都の宇治に福建省と同じ黄檗山萬福寺を開創(開山)。中国の臨済宗が日本のものとは異なるとして、1877年(明治時代)に臨済宗黄檗派から黄檗宗へと改宗されました。
かつて訪ねた際、日本にあるのに日本らしくない多彩な色使いに、よけいに驚きました。確かに、昨春に訪れている中国の寺を彷彿とさせます。そして、普茶料理に舌鼓を打ったわけですが、これも、日本の精進料理に比べると彩りも鮮やかで種類も豊富、中国の豪華な精進料理に通じるものが感じられました。とはいえ、萬福寺の料理のほうが中国よりもやはり楚々とした佇まいを見せるようですが。
玉露の考案者には諸説あります。江戸の茶商(戦後、海苔も扱いはじめる)である、あの、上から読んでも〜下から読んでも〜の「山本山」の6代目山本嘉兵衛説、煎茶宗匠の小川可進(煎茶道小川流創始者)と宇治の上阪清一の共同開発説、宇治の松林長兵衛説、同じく宇治の辻利平説など。ときは江戸、天保時代(1830〜1843)のことです。
★九州における釜煎り製茶の起源
嬉野。同地のお茶は「うれしの茶」の呼称で「地域ブランド」に認可されています。特徴は「釜煎り」です。それによって「釜香」がします。ピラジン類やフラン類による香ばしい香りのことです。前述の隠元禅師が伝えた煎茶の原型は釜煎り製(唐茶)で、永谷宗円が考案した煎茶は蒸し製だったようです。いずれにしろ、揉捻(もむこと)によって従来の抹茶より抽出しやすくなりましたが、日本の製茶法が蒸し製へ向かっていくのに対し、九州では釜煎り製を残していきます。
その九州に釜煎り製法を伝えたのは誰か。明の紅令民なる人物が唐釜(南京釜)を嬉野に持ち込み、それを安土桃山時代、慶長年間(1596〜1615)に吉村新兵衛が取り入れた、とされます。一方、豊臣秀吉による「朝鮮出兵(侵掠)」(九州においてはそれに付き従った肥後北半国を領する熊本城主の加藤清正、肥前佐賀の領主としての鍋島藩の祖である鍋島直茂を中心とする)、1592年の文禄の役および1597年の慶長の役で連行(拉致)されてきた朝鮮半島の陶工たちがはじめた、との説もあります。
こうして九州へと伝えられた「釜煎り製玉緑茶」は、佐賀県の嬉野茶は傾斜釜で、宮崎県・熊本県の青柳茶は水平釜で、それぞれ炒られるようになりました。
なお、釜煎り製にしろ蒸し製にしろ煎茶は、抹茶の製法および点て方との違いにより、急須を使って淹れるようになります。栄西がもたらした抹茶の点茶法(粉末に碾いた茶葉を茶碗に入れ、湯を注ぎ、茶筅でかき混ぜる方法。のち16世紀になって千利休が「茶の湯」として集大成する)が江南ルートで伝わったのに対し、煎茶の淹茶法(揉捻と乾燥の工程を経た茶葉へ湯を注いで浸出する)は閩粤(現在の福建省、広東省)ルートで伝わったとされます(隠元禅師も福建出身でした)。
中国茶でいう閩粤派、潮州の工夫茶が日本の煎茶道の原型であるという説には、大いに納得できます。実際、煎茶道で使われる小振りの急須は、まさに工夫茶で使われる「孟臣壷」(恵孟臣の作による茶壺=急須。姓は恵、名は孟臣。明末清初の紫砂茶壺職人)です。
★磁器の伝来とヨーロッパ製コピー
佐賀といえばもうひとつ、有田・伊万里の焼き物が挙げられます。焼き物は明らかに朝鮮陶工がもたらしました。現在、有田には「第十四代李参平」こと金ケ江三兵衛氏(日本名「金ケ江」は出身である朝鮮半島の「錦江島」にちなんでいるとのこと)が李参平窯を構えています。初代李参平が祀られる「陶山神社」、そして、その後背には「陶祖李参平碑」もあります。
李参平窯の公式ホームページには、初代李参平が有田東部に泉山磁石鉱を発見し、上白川地区に天狗谷窯を築き、分業化を確立。日本で最初の磁器が1616年、その初代李参平によって焼かれた、とあります。ヨーロッパで最初にドイツのマイセンが磁器を焼いた1709年から先んじること約100年です。また、現在、第十四代は初代当時の初期伊万里を原点とし、2016年の有田焼創業400周年に向け、その息吹を蘇らせんとしている、ともあります。
日本を代表し、世界に誇る有田焼ですが、その歴史は「侵掠」と「拉致」からはじまっていることも、忘れてはなりません。
追って酒井田柿右衛門が登場します。公式サイトには、初代柿右衛門は1596年の生まれ、1626年に豊臣秀吉の御用焼物師である高原五郎七が4年間にわたり、酒井田家に作陶を教え、1643年に初めて「赤絵付け」に成功、とあります。
赤絵(色絵とも)とは、白地の釉上に赤をはじめ、緑、黄、紫、藍などの色釉で絵付けした磁器のこと。中国では五彩と呼びます。
公式サイトを要約すると——その「濁手(にごしで。佐賀方言で米の研ぎ汁のこと)」と喩えられる白色の素地は、1650年代頃に創り出され、柔らかくて温かみがあり、かつ、赤絵を引き立たせる。濁手の余白と繊細な赤絵が織り成す構図は、のち「柿右衛門様式」として確立される。
オランダ東インド会社によって1650年、有田焼が初輸出されて以降、1659年からヨーロッパへの輸出が拡大していく。1670年代頃に確立された「柿右衛門様式」も大量に紹介され、高い評価を受ける——となります。
もっとも、ネット公開されている『炎の里有田の歴史物語』(1996年に有田で開催された「世界炎の博覧会」のガイドブック。発行は1996年7月19日、著者・発行者は松本源次)によると、上述の李参平窯の公式ホームページおよび柿右衛門窯の公式サイトに掲載されている内容とは、異なる見解(年代や人物について)が展開されています。ある意味、ミステリー的な面白さにも興味を惹かれます。ただ、一方では、大きな歴史の流れに違いはないものの、細かい点では解釈に違いが出てくる、ということなのですが、我が師のことば「歴史は1分、1秒の差が重要である」を噛み締めると、史実の追究における歯がゆさを感じます。
ヨーロッパでは磁器を焼く技術を持っていなかった時代、中国や日本から輸入していました。自分たちで焼けるようになってからは、中国や日本のものをコピーしていました。ヨーロッパのオリジナルを焼けるようになっても、コピーし続けています。『陶磁の東西交流——景徳鎮・柿右衛門・古伊万里からデルフト・マイセン——』(出光美術館)には、中国の景徳鎮や日本の古伊万里(江戸時代の有田焼のこと)のオリジナルと、ヨーロッパ製コピーが並べて掲載されています(景徳鎮のオリジナルとそれをコピーした古伊万里もあります)。柿右衛門のコピーはマイセン(ドイツ)、チェルシー(イギリス)、ウィーン(オーストリア)などの各窯に多く見られます。
★大浦慶の足跡と日本茶の運命
お茶に関する最後の訪問地は、出島を中心とする長崎の街。鎖国体制を敷いていた江戸時代、唯一の対外窓口だった、というのが出島の一般的な認識でしょうか(最近では新たな発見により、かつての日本史教科書の常識がだいぶ覆されているようで、鎖国も実はこれまでいわれてきているよりも緩かったそうですが)。その幕末の長崎で活躍した大浦慶の足跡をたどるのが目的です。
どんな活躍をしたのか。日本で最初に日本産のお茶を外国へ輸出した人物だったのです。幕末の日本で女性ながらに成し遂げた快挙といわざるをえません。長崎という国際都市だからこそ可能ならしめたこともあるでしょうが、彼女自身のキャラクターによるところが大きいと思われます。手許にあるのは『天翔ける女(ひと)』(白石一郎/文春文庫)くらいで、そのほかには断片的なものしか資料としてはないものの、ありきたりで不本意ながら「波瀾万丈の生涯を送った女傑」とまとめられます。
大浦慶は1828年、長崎屈指の油問屋の娘として生まれました。しかし、裕福かに見えたのも束の間、家業は傾き、1843年の大火によって追い討ちをかけられます。再興を目指して奔走するなか、茶葉の輸出に勝機を賭け、立て直しに成功するどころか、財を成し、名声も手に入れました。茶葉に目をつけたのは先見の明があったということです。
きっかけは、オランダ人(テキストルとしかわからない)を通してイギリス、アメリカ、アラビアに、嬉野のお茶をサンプルとして送ったこと。その3年後の1856年、イギリス人貿易商のウィリアム・J・オルトから1万斤(約6トン)のオーダーを受け、九州全域を駆け回って集めた茶葉が、アメリカへ輸出された、というわけです。
もともと清や欧米諸国の事情をいち早く知ることができるのは、中国人やオランダ人が居住する出島を擁する長崎ならでは。1840〜1842年、1856〜1860年と2度にわたり、イギリスと清の間でアヘン戦争(2度目はアロー戦争とも)が起きています(改めて説明するまでもありませんが——イギリスが清からお茶を買って銀で支払う。すると、銀が流出する。そこで、植民地下に置くインドからアヘンを清に売り付けると、代価として銀が再び流入する。イギリスは一挙両得。当然、清はアヘンを拒否する。が、逆切れしたイギリスが攻撃を仕掛け、勝利して香港を分捕る——イギリスによる理不尽な戦争です)。戦争の混乱で中国のお茶が供給できなくなれば、日本のお茶が取って代わる余地はある、と慶は踏んだわけです。また、1853年はマシュー・C・ペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が浦賀沖に現れる、いわゆる「黒船襲来」の年でもあります。ここでも日本の開国とその先を、慶は読めたのです。開国すれば対外貿易も規制がなくなる、と。なにしろ、情報収集のために、当時の茶葉貿易の中心地である上海へ、国禁を犯して自ら密出入国までしていた、といわれますから、すでに上海で黒船も欧米列強の勢いも目にしていたことでしょう。
その成功から、長崎では一目置かれる存在になりました。ウィリアム・J・オルトのほか、観光地「グラバー邸」で知られる同じくイギリスの武器商人であるトーマス・B・グラバー(現在も香港にある旧アヘン貿易商、ジャーディン・マセソン商会の長崎代理人も務める)などとも付き合いがあり、のみならず、坂本龍馬をはじめとする勤王の志士たち、のちの明治政府の中枢を占める勝海舟などとも交流を持ち、支援したともいわれるように、日本の歴史そのものにも深くかかわることとなります。
ところが、「好事魔多し」、しだいに商売に陰りが見えはじめます。肝腎の茶葉が売れなくなるのです。なぜなら、需要の主流が釜煎り製茶から蒸し製茶へと変わっていったからです。釜煎り製茶の産地である九州と入れ代わりに擡頭してきたのが、蒸し製茶の産地である静岡でした。1868年に明治と改元されて以降、牧之原台地を中心に、茶園は県下へ急速に拡がっていきました。江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜が、大政奉還後に駿府(現静岡県)へ移り住むと、失業した武士たちが茶園の開墾に従事することになったのですが、皮肉なことにそれを推し進めたのが、勝海舟でした。また、1854年に日米和親条約が締結されて以降、案の定、貿易は確かに盛んになるものの、茶葉輸出の拠点が横浜港に移されてしまったのは予想外のことだったでしょう。
そして、ついには詐欺事件に巻き込まれ、現代でいう連帯保証人のようなものとなったばかりに、振り出しに戻る無一文の身になるのでした。栄華を極めるや、図らずも驕りが顔を覗かせ、類い稀なる勘も鈍ったのでしょうか。
後日談としての日本茶の運命について、流れだけ追っておきましょう。その後、粗悪な日本茶(『セイロン亭の謎』平岩弓枝/新潮文庫に、時代は昭和初期まで下りますが、「狐っ葉」として粗悪茶の話が出てきます)が出回り、アメリカから「贋茶輸入禁止条例」の公布を受け、同時に世界のトレンドがインドの紅茶へと向かったため、世界における日本茶は衰退していきます。現代に至って健康食品の扱いから、ようやく再び脚光を浴びるようになり、輸出も徐々に増えているようです。
参考資料:
1.『栄西と中世博多展』福岡市博物館
2.『日本茶検定公式テキスト 日本茶のすべてがわかる本』日本茶検定委員会/農文協
3.『日本茶インストラクター講座Ⅰ』NPO法人日本茶インストラクター協会
4.『ティーロード——日本茶の来た道』松下智/雄山閣
5.『日本名茶紀行』松下智/雄山閣
6.『陶磁の東西交流——景徳鎮・柿右衛門・古伊万里からデルフト・マイセン——』
出光美術館
7.「日本茶で開いた未来 幕末の貿易商・大浦慶の足跡を訪ねて」今村由美/ANA機
内誌『翼の王国』2010年10月号
8.『天翔ける女(ひと)』白石一郎/文春文庫
9.『セイロン亭の謎』平岩弓枝/新潮文庫
中國茶倶樂部「龜僊人窟」主人 池谷直人