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  • リポート(3)お茶の歴史を九州に巡る〈資料編〉

    リポート(3)

    お茶の歴史を九州に巡る〈資料編〉

     前回に引き続き、今回は2012年5月13日〜17日の研修旅行のためにまとめた資料です。前回のとき〈紀行編〉も書くと予告したにもかかわらず、いまだ書かずじまい。で、今回の〈資料編〉が先に出てしまいました。が、〈紀行編〉も2篇とも必ず書きます。しばらくお待ちください(そもそも、お待ちになっている方がいらっしゃるかどうかわかりませんが、少なくとも私自身は待っております)。

     中國茶倶樂部の研修旅行では、沖縄に続く日本国内2箇所目、九州に初上陸します。昨春の“お茶の伝播を俯瞰する旅”の〈中国編〉と対を成す〈日本編〉です。もっとも、第3部として、〈韓国編〉も予定しておりますが。お茶のみならず磁器も含め、その関係をみるうえで、江南(上海を中心とする江蘇省、安徽省、浙江省の一帯)、九州と並び、朝鮮半島も絶対に外せませんから。

     さて、その九州ですが、今回は福岡、佐賀、長崎の3県にまたがり、博多(福岡)を起点に脊振山・霊仙寺(佐賀)、八女(福岡)、佐賀県立九州陶磁文化館、有田、伊万里、嬉野(佐賀)、平戸・千光寺、出島(長崎)、博多・聖福寺(福岡)のルートを採ります。

    ★栄西と日本最初の茶園

     まず、博多。ここは栄西ゆかりの地です。栄西は、いうまでもなく、臨済宗の開祖であるとともに、お茶を日本に普及、定着させた人物です。1168年の5カ月間、1187年〜1191年の4年間、と2度にわたり、当時は南宋の時代だった中国へ渡航しています。目指した港が昨春に訪れた浙江省南部に位置する寧波でした。2度とも博多から出帆し、最初の入宋から帰り着いたのも博多でした。そもそも、渡航前後も博多に滞在しています。旅を前にして航海の無事を祈願したり、中国の情報を収集したりしていますし、2度目の入宋から戻ったあとの1195年には聖福寺(しょうふくじ)を建てています。

     2度目に帰り着いたのは平戸でした。お茶に関していえば、その年、同地に冨春庵を結び、日本初の座禅修行を行ないつつ、中国から持ち帰ったお茶の種ないしは苗により、お茶の栽培をはじめた、とされます。その後、1193年に千光寺を建てました。冨春庵の跡地が千光寺で、それにちなんで茶園は冨春園と呼ばれるようになりました。ちなみに、「冨春」とは、『日本名茶紀行』(松下智/雄山閣)に「栄西が中国滞在中常に眺めていた浙江省の大河、富春江(銭塘江)を懐かしんだものであろう」とあります(現地の石碑は「冨」、同書は「富」)。

     また、福岡県と佐賀県にまたがる脊振山(せふりさん)でも、同時期にお茶の栽培がはじまったようです。平戸から同地の霊仙寺(りょうせんじ)に移り住んだ栄西が、お茶の種を播いたか苗を植えたかした、といわれているのです。

     つまり、日本で最初の茶園は、平戸説と脊振山説とふたつあるわけです。ただ、順番から考えると、先に着いた平戸のほうが優位にある気はします。さらに、同じく『日本名茶紀行』によれば、お茶の種は夏の高温期を過ぎると発芽力が失われてしまうので、栄西の帰国が7月であることから、「平戸の富春庵の裏山に播いたことが理にかなっていると考えられる」とし、「が、それを裏付けるものは、心当たりが無い」と続けています。苗だったら違うのでしょうか。

     ところで、栄西(明庵栄西禅師)の読みですが、いろいろ調べてみると「えいさい」「ようさい」「えいざい」「ようざい」の4通り見られました。後者ふたつは連濁(二語が複合して一語になるとき、後側の語頭の清音が濁音に変化すること)現象のせいでしょう。

     では、「えいさい」か「ようさい」か。結論は、どちらでもよい、ということにあいなりました。

     「栄」の元の字は「榮」、漢音が「エイ」、呉音が「ヨウ」。「西」は漢音が「セイ」、呉音が「サイ」。呉音が主に仏教用語として使われることを鑑みれば、「ようさい」が妥当でしょう。ちなみに「明庵」の読みは「みんなん」で、「明」の漢音は「メイ」、呉音は「ミョウ」、唐音は「ミン」、「庵」は漢音、呉音とも「アン」。「なん」は「ミン(n)」と「ア(a)ン」で「ナン(nan)」になる連声(前の音節の子音と後の音節の母音が同化すること)現象を起こしたものです。それはそうとして、なぜ、「ミョウ」と「アン」の呉音で「みょうあん」にならないのでしょうか。

     栄西が開山した聖福寺(福岡)、寿福寺(鎌倉)、建仁寺の(京都)うち、公式ウェブサイトを持つ聖福寺と建仁寺では「ようさい」としています。臨済宗の開祖ですから臨済宗では「ようさい」と読むのは当然でしょう。なお、栄西の孫弟子に当たる道元が開祖である曹洞宗では「えいさい」と読むとか。また、一般的な読み方に基づいても「えいさい」が普通でしょう。

     臨済宗の開祖である点を尊重して「ようさい」を使っても、一般的な読み方の「えいさい」を使っても、どちらでも正しく、間違いではないということです。

     これまで栄西が開山した寿福寺と建仁寺を観てきたのですが、建立順でいうと、千光寺(1193年)、聖福寺(1195年)、寿福寺(1200年)、建仁寺(1202年)となり、九州からはじまっていったん関東に跳び、最後に都である京都に到っていることがわかります。時代ゆえに、とりわけ政治やら宗教やらの権力者との確執に、手を焼いたであろうことが窺われます。

    ★八女の玉露と隠元禅師の煎茶

     八女。栄西がもたらしたお茶は日本全国へと拡がっていきます。九州各地にも茶園はできていきました。福岡県で生産されるお茶は、「八女茶」「福岡の八女茶」の呼称で特許庁から認可を受けた「地域ブランド」となっています。宇治(京都)、岡部(静岡)と並ぶ玉露の3大産地で、2008年の生産量は宇治140トン、岡部12トンに対して八女は99トンと第2位を占めます(伝統製法による。後述)。

     そうしたなか、近年、三重県産の玉露と称するお茶が問題になっています。2008年に三重県産の玉露生産量が132トンに上り、前年の3トンから一気に44倍という脅威の伸びを示したのです。これは2週間弱、茶葉に直接おおいを被せてつくったものを玉露と称して生産したためです。その製法がかぶせ茶に類似していることから、福岡や静岡の業者が異議を申し立てています。

     玉露、かぶせ茶、そして、抹茶の原料となる碾茶の三種類は被覆栽培でできるお茶ですが、それぞれ製法が異なります。『日本茶検定公式テキスト 日本茶のすべてがわかる本』(日本茶検定委員会/農文協)によれば、「玉露と碾茶は茶園全体に棚を作って被覆して育て、遮光した中で葉を開かせます。まず、新芽が1〜2枚開き始めた頃から、遮光率55〜60%の覆いを掛けます。7〜10日後、さらに強力な覆いをして遮光率を95〜98%にします。被覆をし始めて20日後くらいが、摘採に丁度良い時期となります」。それに対し、かぶせ茶は棚式ではなく、直接被覆でもよく、遮光率が低く、その期間が短いのです。そもそもおおいを被せるのは、遮光することによってテアニン(甘み)とカフェイン(苦み)が増し、カテキン(渋み、苦み)が減るので、お茶の品質を上げるのが目的です。

     手間も品質も価格も違うのに、3大産地の伝統製法と三重の簡易製法、どちらでつくられても同じく玉露と呼べるのか、という問題です。

     農林水産省の統計では、2008年までは「玉露」「かぶせ茶」「碾茶」を分けて集計していますが、2009年以降はその3種類を合わせて「おおい茶」として集計しています。そして、2008年の統計では三重の簡易製法の玉露も「玉露」に分類しているため、その場合だと前述のランキングは第1位宇治(140トン)、第2位三重(132トン)、第3位八女(99トン)と変わります。また、「おおい茶」のランキングとしては2009年が第1位三重(1560トン)、第2位宇治(1130トン)、第3位八女(563トン)、2010年が第1位三重(1390トン)、第2位宇治(1070トン)、第3位八女(586トン)となります。

     このように、伝統製法によるランキングにしろ、「おおい茶」によるランキングにしろ、八女はトップではないにもかかわらず、「“伝統本玉露”の生産量日本一」と称されます。なぜでしょうか。

     「おおい茶」については上述の通りですから、それは、宇治茶の定義によります。社団法人京都府茶業会議所は2004年3月25日、「宇治茶は、歴史・文化・地理・気象等総合的な見地に鑑み、宇治茶として、ともに発展してきた当該産地である京都・奈良・滋賀・三重の四府県産茶で京都府内業者が府内で仕上げ加工したものである。ただし、京都府を優先するものとする」との定義を発表したのです。

     つまり、純粋に八女産のお茶で、伝統製法に基づいてつくられているため、真の意味での「“伝統本玉露”の生産量日本一」ということになるわけです。

     煎茶は、宇治に住む、あの、お茶漬けやお吸い物で知られる「永谷園」の創業者の先祖である永谷宗円が、1738年に考案しました。とはいえ、その前段に、あの、インゲン豆で知られる隠元禅師の影響がみられます。というのは、来日に際し、煎茶の原型を携えてきたからです。永谷宗円もその喫茶の文化に触れた結果というわけです。抹茶法から煎茶法への転換期にあたるわけでもあります。このほか、件のインゲン豆をはじめ、スイカ、レンコン、タケノコ、あるいは、美術、建築、印刷などの技術ももたらしています。

     隠元禅師は明(1368〜1644)を代表する臨済宗の僧で、福建省にある黄檗山萬福寺の住持(住職)でした。日本からの度重なる招聘に応じて1654年(1616〜1911の清とかぶる)、63歳のときに来日。1661年、京都の宇治に福建省と同じ黄檗山萬福寺を開創(開山)。中国の臨済宗が日本のものとは異なるとして、1877年(明治時代)に臨済宗黄檗派から黄檗宗へと改宗されました。

     かつて訪ねた際、日本にあるのに日本らしくない多彩な色使いに、よけいに驚きました。確かに、昨春に訪れている中国の寺を彷彿とさせます。そして、普茶料理に舌鼓を打ったわけですが、これも、日本の精進料理に比べると彩りも鮮やかで種類も豊富、中国の豪華な精進料理に通じるものが感じられました。とはいえ、萬福寺の料理のほうが中国よりもやはり楚々とした佇まいを見せるようですが。

     玉露の考案者には諸説あります。江戸の茶商(戦後、海苔も扱いはじめる)である、あの、上から読んでも〜下から読んでも〜の「山本山」の6代目山本嘉兵衛説、煎茶宗匠の小川可進(煎茶道小川流創始者)と宇治の上阪清一の共同開発説、宇治の松林長兵衛説、同じく宇治の辻利平説など。ときは江戸、天保時代(1830〜1843)のことです。

    ★九州における釜煎り製茶の起源

     嬉野。同地のお茶は「うれしの茶」の呼称で「地域ブランド」に認可されています。特徴は「釜煎り」です。それによって「釜香」がします。ピラジン類やフラン類による香ばしい香りのことです。前述の隠元禅師が伝えた煎茶の原型は釜煎り製(唐茶)で、永谷宗円が考案した煎茶は蒸し製だったようです。いずれにしろ、揉捻(もむこと)によって従来の抹茶より抽出しやすくなりましたが、日本の製茶法が蒸し製へ向かっていくのに対し、九州では釜煎り製を残していきます。

     その九州に釜煎り製法を伝えたのは誰か。明の紅令民なる人物が唐釜(南京釜)を嬉野に持ち込み、それを安土桃山時代、慶長年間(1596〜1615)に吉村新兵衛が取り入れた、とされます。一方、豊臣秀吉による「朝鮮出兵(侵掠)」(九州においてはそれに付き従った肥後北半国を領する熊本城主の加藤清正、肥前佐賀の領主としての鍋島藩の祖である鍋島直茂を中心とする)、1592年の文禄の役および1597年の慶長の役で連行(拉致)されてきた朝鮮半島の陶工たちがはじめた、との説もあります。

     こうして九州へと伝えられた「釜煎り製玉緑茶」は、佐賀県の嬉野茶は傾斜釜で、宮崎県・熊本県の青柳茶は水平釜で、それぞれ炒られるようになりました。

     なお、釜煎り製にしろ蒸し製にしろ煎茶は、抹茶の製法および点て方との違いにより、急須を使って淹れるようになります。栄西がもたらした抹茶の点茶法(粉末に碾いた茶葉を茶碗に入れ、湯を注ぎ、茶筅でかき混ぜる方法。のち16世紀になって千利休が「茶の湯」として集大成する)が江南ルートで伝わったのに対し、煎茶の淹茶法(揉捻と乾燥の工程を経た茶葉へ湯を注いで浸出する)は閩粤(現在の福建省、広東省)ルートで伝わったとされます(隠元禅師も福建出身でした)。

     中国茶でいう閩粤派、潮州の工夫茶が日本の煎茶道の原型であるという説には、大いに納得できます。実際、煎茶道で使われる小振りの急須は、まさに工夫茶で使われる「孟臣壷」(恵孟臣の作による茶壺=急須。姓は恵、名は孟臣。明末清初の紫砂茶壺職人)です。

    ★磁器の伝来とヨーロッパ製コピー

     佐賀といえばもうひとつ、有田・伊万里の焼き物が挙げられます。焼き物は明らかに朝鮮陶工がもたらしました。現在、有田には「第十四代李参平」こと金ケ江三兵衛氏(日本名「金ケ江」は出身である朝鮮半島の「錦江島」にちなんでいるとのこと)が李参平窯を構えています。初代李参平が祀られる「陶山神社」、そして、その後背には「陶祖李参平碑」もあります。

     李参平窯の公式ホームページには、初代李参平が有田東部に泉山磁石鉱を発見し、上白川地区に天狗谷窯を築き、分業化を確立。日本で最初の磁器が1616年、その初代李参平によって焼かれた、とあります。ヨーロッパで最初にドイツのマイセンが磁器を焼いた1709年から先んじること約100年です。また、現在、第十四代は初代当時の初期伊万里を原点とし、2016年の有田焼創業400周年に向け、その息吹を蘇らせんとしている、ともあります。

     日本を代表し、世界に誇る有田焼ですが、その歴史は「侵掠」と「拉致」からはじまっていることも、忘れてはなりません。

     追って酒井田柿右衛門が登場します。公式サイトには、初代柿右衛門は1596年の生まれ、1626年に豊臣秀吉の御用焼物師である高原五郎七が4年間にわたり、酒井田家に作陶を教え、1643年に初めて「赤絵付け」に成功、とあります。

     赤絵(色絵とも)とは、白地の釉上に赤をはじめ、緑、黄、紫、藍などの色釉で絵付けした磁器のこと。中国では五彩と呼びます。

     公式サイトを要約すると——その「濁手(にごしで。佐賀方言で米の研ぎ汁のこと)」と喩えられる白色の素地は、1650年代頃に創り出され、柔らかくて温かみがあり、かつ、赤絵を引き立たせる。濁手の余白と繊細な赤絵が織り成す構図は、のち「柿右衛門様式」として確立される。

     オランダ東インド会社によって1650年、有田焼が初輸出されて以降、1659年からヨーロッパへの輸出が拡大していく。1670年代頃に確立された「柿右衛門様式」も大量に紹介され、高い評価を受ける——となります。

     もっとも、ネット公開されている『炎の里有田の歴史物語』(1996年に有田で開催された「世界炎の博覧会」のガイドブック。発行は1996年7月19日、著者・発行者は松本源次)によると、上述の李参平窯の公式ホームページおよび柿右衛門窯の公式サイトに掲載されている内容とは、異なる見解(年代や人物について)が展開されています。ある意味、ミステリー的な面白さにも興味を惹かれます。ただ、一方では、大きな歴史の流れに違いはないものの、細かい点では解釈に違いが出てくる、ということなのですが、我が師のことば「歴史は1分、1秒の差が重要である」を噛み締めると、史実の追究における歯がゆさを感じます。

     ヨーロッパでは磁器を焼く技術を持っていなかった時代、中国や日本から輸入していました。自分たちで焼けるようになってからは、中国や日本のものをコピーしていました。ヨーロッパのオリジナルを焼けるようになっても、コピーし続けています。『陶磁の東西交流——景徳鎮・柿右衛門・古伊万里からデルフト・マイセン——』(出光美術館)には、中国の景徳鎮や日本の古伊万里(江戸時代の有田焼のこと)のオリジナルと、ヨーロッパ製コピーが並べて掲載されています(景徳鎮のオリジナルとそれをコピーした古伊万里もあります)。柿右衛門のコピーはマイセン(ドイツ)、チェルシー(イギリス)、ウィーン(オーストリア)などの各窯に多く見られます。

    ★大浦慶の足跡と日本茶の運命

     お茶に関する最後の訪問地は、出島を中心とする長崎の街。鎖国体制を敷いていた江戸時代、唯一の対外窓口だった、というのが出島の一般的な認識でしょうか(最近では新たな発見により、かつての日本史教科書の常識がだいぶ覆されているようで、鎖国も実はこれまでいわれてきているよりも緩かったそうですが)。その幕末の長崎で活躍した大浦慶の足跡をたどるのが目的です。

     どんな活躍をしたのか。日本で最初に日本産のお茶を外国へ輸出した人物だったのです。幕末の日本で女性ながらに成し遂げた快挙といわざるをえません。長崎という国際都市だからこそ可能ならしめたこともあるでしょうが、彼女自身のキャラクターによるところが大きいと思われます。手許にあるのは『天翔ける女(ひと)』(白石一郎/文春文庫)くらいで、そのほかには断片的なものしか資料としてはないものの、ありきたりで不本意ながら「波瀾万丈の生涯を送った女傑」とまとめられます。

     大浦慶は1828年、長崎屈指の油問屋の娘として生まれました。しかし、裕福かに見えたのも束の間、家業は傾き、1843年の大火によって追い討ちをかけられます。再興を目指して奔走するなか、茶葉の輸出に勝機を賭け、立て直しに成功するどころか、財を成し、名声も手に入れました。茶葉に目をつけたのは先見の明があったということです。

     きっかけは、オランダ人(テキストルとしかわからない)を通してイギリス、アメリカ、アラビアに、嬉野のお茶をサンプルとして送ったこと。その3年後の1856年、イギリス人貿易商のウィリアム・J・オルトから1万斤(約6トン)のオーダーを受け、九州全域を駆け回って集めた茶葉が、アメリカへ輸出された、というわけです。

     もともと清や欧米諸国の事情をいち早く知ることができるのは、中国人やオランダ人が居住する出島を擁する長崎ならでは。1840〜1842年、1856〜1860年と2度にわたり、イギリスと清の間でアヘン戦争(2度目はアロー戦争とも)が起きています(改めて説明するまでもありませんが——イギリスが清からお茶を買って銀で支払う。すると、銀が流出する。そこで、植民地下に置くインドからアヘンを清に売り付けると、代価として銀が再び流入する。イギリスは一挙両得。当然、清はアヘンを拒否する。が、逆切れしたイギリスが攻撃を仕掛け、勝利して香港を分捕る——イギリスによる理不尽な戦争です)。戦争の混乱で中国のお茶が供給できなくなれば、日本のお茶が取って代わる余地はある、と慶は踏んだわけです。また、1853年はマシュー・C・ペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が浦賀沖に現れる、いわゆる「黒船襲来」の年でもあります。ここでも日本の開国とその先を、慶は読めたのです。開国すれば対外貿易も規制がなくなる、と。なにしろ、情報収集のために、当時の茶葉貿易の中心地である上海へ、国禁を犯して自ら密出入国までしていた、といわれますから、すでに上海で黒船も欧米列強の勢いも目にしていたことでしょう。

     その成功から、長崎では一目置かれる存在になりました。ウィリアム・J・オルトのほか、観光地「グラバー邸」で知られる同じくイギリスの武器商人であるトーマス・B・グラバー(現在も香港にある旧アヘン貿易商、ジャーディン・マセソン商会の長崎代理人も務める)などとも付き合いがあり、のみならず、坂本龍馬をはじめとする勤王の志士たち、のちの明治政府の中枢を占める勝海舟などとも交流を持ち、支援したともいわれるように、日本の歴史そのものにも深くかかわることとなります。

     ところが、「好事魔多し」、しだいに商売に陰りが見えはじめます。肝腎の茶葉が売れなくなるのです。なぜなら、需要の主流が釜煎り製茶から蒸し製茶へと変わっていったからです。釜煎り製茶の産地である九州と入れ代わりに擡頭してきたのが、蒸し製茶の産地である静岡でした。1868年に明治と改元されて以降、牧之原台地を中心に、茶園は県下へ急速に拡がっていきました。江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜が、大政奉還後に駿府(現静岡県)へ移り住むと、失業した武士たちが茶園の開墾に従事することになったのですが、皮肉なことにそれを推し進めたのが、勝海舟でした。また、1854年に日米和親条約が締結されて以降、案の定、貿易は確かに盛んになるものの、茶葉輸出の拠点が横浜港に移されてしまったのは予想外のことだったでしょう。

     そして、ついには詐欺事件に巻き込まれ、現代でいう連帯保証人のようなものとなったばかりに、振り出しに戻る無一文の身になるのでした。栄華を極めるや、図らずも驕りが顔を覗かせ、類い稀なる勘も鈍ったのでしょうか。

     後日談としての日本茶の運命について、流れだけ追っておきましょう。その後、粗悪な日本茶(『セイロン亭の謎』平岩弓枝/新潮文庫に、時代は昭和初期まで下りますが、「狐っ葉」として粗悪茶の話が出てきます)が出回り、アメリカから「贋茶輸入禁止条例」の公布を受け、同時に世界のトレンドがインドの紅茶へと向かったため、世界における日本茶は衰退していきます。現代に至って健康食品の扱いから、ようやく再び脚光を浴びるようになり、輸出も徐々に増えているようです。

    参考資料:

    1.『栄西と中世博多展』福岡市博物館

    2.『日本茶検定公式テキスト 日本茶のすべてがわかる本』日本茶検定委員会/農文協

    3.『日本茶インストラクター講座Ⅰ』NPO法人日本茶インストラクター協会

    4.『ティーロード——日本茶の来た道』松下智/雄山閣

    5.『日本名茶紀行』松下智/雄山閣

    6.『陶磁の東西交流——景徳鎮・柿右衛門・古伊万里からデルフト・マイセン——』

     出光美術館

    7.「日本茶で開いた未来 幕末の貿易商・大浦慶の足跡を訪ねて」今村由美/ANA機

     内誌『翼の王国』2010年10月号

    8.『天翔ける女(ひと)』白石一郎/文春文庫

    9.『セイロン亭の謎』平岩弓枝/新潮文庫

    中國茶倶樂部「龜僊人窟」主人 池谷直人


  • リポート(2)お茶の歴史を江南に巡る〈資料編〉

    リポート(2)

    お茶の歴史を江南に巡る〈資料編〉

     今回の文章は、2011年4月1日〜5日にかけて催行した研修旅行のための資料として書いたものに、加筆したものです。訪れる前に書いたものを〈資料編〉とし、後に書いたものを〈紀行編〉とする予定です。

     訪れた先は中国の緑茶の産地である江南です。中国から日本へと伝わったお茶の歴史を、ごく一部ながら、俯瞰するのが目的でした。

     後半は暴走気味の感もあるでしょうが、そういう歴史(どういう歴史かは本文をご覧ください)を直視しないで、お茶だけに目を向けることができないものですから。

     中国におけるお茶の生産量の約7割は緑茶です。緑茶を喫み慣れた日本人にとっては受け容れやすいのですが、逆に日本の緑茶を喫み慣れているがゆえに、なかなか受け容れられない中国の緑茶もあります。

     そうしたなか径山茶は素直に「美味しい」と言えるお茶です(もちろん上質なものに限ります)。

     径山茶、また、径山香茗ともいいます。浙江省の余杭と臨安(南宋=1127〜1279=の首都と同じ名で、現在の杭州のこと。現在の臨安に当時の名が残っているのでしょう)にまたがる径山に産するので、そう名づけられました。余杭も臨安も龍井茶の産地である杭州に隣接しています。

     栽培の歴史は遠く唐(618〜907)の時代にまでさかのぼります。同山には同じく唐代に創建された臨済宗の径山寺(径山興聖萬壽禅寺)があります(日本の臨済宗の宗派のひとつ「興聖寺派」は、千利休の後継である古田織部が虚応円耳を開山として1603年に創建した京都の興聖寺を本山としますが、径山寺と関係があるのでしょうか)。お茶と仏教、とりわけ禅宗とのかかわりが深いことを考えれば、ともに発展してきたであろうと納得できます。実際、陸羽も滞在しています。

     もっとも、陸羽が愛したお茶は、径山茶ではなく、晩年を過ごした太湖の畔の湖州に産する顧渚紫笋茶です。

     顧渚紫笋、また、湖州紫笋、長興紫笋などともいいます(顧渚、湖州、長興はいずれも地名です)。紫の由来は産毛が紫がかった色から、笋(タケノコ)の由来は二説あり、一説には茶葉の形状がタケノコのように見えるところから、一説には茶葉の香りがタケノコのようであるところから、きているそうです。

     *参考資料:『中国茶経』陳宗懋/上海文化出版社、『茶聖陸羽』成田重行/淡交社

     径山寺は南宋の五山のひとつに数えられます(あとのよっつは雲隠、天童、浄慈、育王。もとをたどれば印度の五精舎にならって制定。さらに日本が中国にならって鎌倉五山=建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺と、京都五山=南禅寺、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺を制定しました)。全日本煎茶道連盟によれば、同寺の茶宴儀式および茶宴用具一式が日本に伝わり、茶道の源になったとされます。

     また、雑学として、金山寺(径山寺)味噌の源でもあり、1254年に帰朝した心地覚心(法燈国師)が伝えたとのことです(真言宗の開祖である空海が唐の金山寺から持ち帰ったとの説もあります)。

     さて、味噌はともかく、お茶が日本へもたらされたのは奈良時代(710〜794)といわれます。その前後の時代には日本から、遣隋使あるいは遣唐使と呼ばれる国使が隋(589〜618)や唐に派遣され、のちに日本の各宗派を興す有名な僧たちも、仏教を勉強するために留学しています。彼らは当時世界の最先進国であった中国から、さまざまな文物を持ち帰ります。そのなかにお茶も含まれていました。

     では、お茶を日本へもたらしたのは具体的に誰でしょうか。諸説あるものの、よくいわれるのは天台宗の開祖である最澄です。804年に遣唐使の一員として唐へ渡り、805年に帰朝した際に携えていたのでしょう。同様に空海も806年に持ち帰っているようです。しかし、平安時代(794〜1192)ではなく、奈良時代にはもたらされていたわけですから、最初ではありません。

     『[年表]茶の世界史』(松崎芳郎/八坂書房)によると、日本でいちばん古い記録は729年で、「行茶の儀有り(『公事根源』)」とあり、次いで748年に「行基が茶木を植えた(『東大寺要録』)」とあります。

     行基は奈良の大仏建立の責任者に任じられ、日本で最初の「大僧正」となりました。その師である道昭は653年に遣唐使として唐に赴き、あの孫悟空を手玉に取った三蔵法師に教えを受けています。行基は660年に帰朝したあとの道昭からお茶の種を譲り受け、苗木に育てた茶樹を、のちになって植えたかのかもしれません。あるいは、736年に来日した印度出身の僧である菩提僊那がチャンパ王国(越南)出身の僧である仏哲と唐の僧である道璿を出迎えた際に贈られたお茶の種もしくは苗木を、植えたかのかもしれません——と、想像をたくましくしたものの、『公事根源』も『東大寺要録』も、それぞれ1422年、1106年とかなり後年の編纂なので、『日本茶インストラクター講座I』(NPO法人日本茶インストラクター協会)は「検証は難しい」「確認することはできない」としています。結局、同書が確認できる最も古い文献として挙げているのは『日本後記』(792〜833年を記し、840年に成るため、リアルタイムで編纂された史書というわけでしょうか)で、815年に「大僧都永忠、手自ら茶を煎じて奉御す」とあるとしています。永忠は805年に帰朝するまで30年の在唐経験があり、仏教とともに喫茶についても勉強してきたといいます。

     お茶を日本へ最初にもたらした人物ははっきりしませんが、拡めた人物ははっきりしています。臨済宗の開祖である栄西です。『喫茶養生記』なるお茶の効能について記した書も残しています。

     栄西は生涯に2度、中国へ渡航しています。1度めは1168年から5カ月間、2度めは1187〜1191年の4年間。当時の中国は南宋の時代でした。

     栄西が修行したのは天台山の万年寺、太白山の天童寺です。仏教の勉強もさることながら、当時この辺りで盛んに喫まれていた抹茶についても強い興味を持った栄西は、帰国に当たってお茶の種ないしは苗を荷物に詰めたのです(現在でも天台雲霧茶あるいは華頂雲霧茶というお茶がつくられています)。その後、長崎平戸の千光寺と佐賀背振山の霊仙寺に種を蒔いたか苗を植えたかしたのをはじめとし、日本各地に茶園が形成されていったというわけです。

     *参考資料:『中国 名茶紀行』布目潮風/新潮選書、『ティーロード 日本茶の来た道』松下智/雄山閣出版

     栄西が持ち帰った種なり苗なりの源流が、径山茶だという説があります。なるほど栄西が修行で径山寺に立ち寄った可能性はあります。

     『中国茶経』(陳宗懋/上海文化出版社)によれば、「かつて日本から高僧が径山寺を訪れ、仏教を研究したのち、お茶の種も携えて帰国した。日本の茶道の儀礼は同寺で行なわれていた茶宴の儀礼が元になっている」といいます。さらに、『清茗拾趣』(〈中国茶文化大観〉編集委員会/中国軽工業出版社)にも、「径山雲霧茶」として次のような話が載っています。

     ——むかし径山に老夫婦が住んでおった。その家の前に古い甕(かめ)がほったらかしにされており、中には雨水が溜まっておった。ある日、通りがかりの商人が、甕を買いたいと手付金を打って帰っていった。老夫婦は甕を洗って待っておった。

     ところが、商人が欲しかったのは甕そのものではなく、中の雨水のほうだった。溜まっていたのは雨水ではなく、天宮で飼われている金鶏の尿で、万病を治す仙薬だったのだ。誤って尿を棄ててしまった場所には、朝になると霧が立ち、18本の灌木が生えてきた。3年経って成長した葉をお茶にして喫むと、なんとも清らかな香りがした。

     老夫婦は道行く人にこのお茶を振る舞い、種を分け与えた。その種のひとつが海の向こうの日本にも伝わったとさ——

     途絶えていた径山茶の生産は、1978年に再開されました。当時のものとは別のものでしょうし、そもそも果たして日本茶の源流なのかどうか、真偽のほども定かではありません。が、現在のものが美味しいということには、疑いを挟む余地のない事実ですので、とりあえず喫みながら謎を追う……というよりも、歴史のロマンに浸ってみましょう。

     ただ、中国から日本へとお茶が伝わっていく歴史のロマンを打ち砕く、20世紀の歴史があったことも忘れてはなりません。

     空海も最澄も栄西も、はるか日本から海を渡って中国に第一歩を踏み締めた地点は、寧波の港でした。空海と最澄は第18次遣唐使として804年に辛くも辿り着き、空海は唐の都である長安へ向かったのち醴泉寺や青龍寺で、最澄は隣接する天台に赴いて国清寺で、それぞれ学びました。栄西は先述のように2度にわたって留学し、天台山の万年寺、太白山の天童寺で、また、栄西の孫弟子にあたる曹洞宗の開祖である道元も同じく天童寺で、それぞれ学びました。

     仏教のみならずそのほかの面でも日本に多大な影響を与えた僧たちの上陸地点であるその寧波に、こともあろうか日中戦争時に日本軍はペスト菌をばら撒いたのです。細菌兵器(生物兵器)の研究・開発、および人体実験を行なったことで知られる満州の「731部隊」ですが、そのほかにも北京の1855部隊、南京の1644部隊(寧波にペスト菌をばら撒いた主力部隊)、広東の8604部隊など、中国各地に細菌戦部隊が展開され、実戦に使用されました。

     戦勝国による不公平な裁判との批判もある東京裁判では、「731部隊」のことはいっさい審議されませんでした。理由はその「成果」をアメリカに引き渡すことで免責されたからです。その後に続く米ソ冷戦に備えてアメリカが密かに独占したわけです(ある意味こっちのほうが「不公平」だと思います)。実際にアメリカは朝鮮戦争(1950〜1953)で使っています。

     ちなみに、免責された「731部隊」の責任者である石井四郎の片腕だった内藤良一をはじめとする部隊員たちによって設立されたのが「ミドリ十字」(現在の三菱ウェルファーマ)で、「薬害エイズ」の元凶となったことは誰もが知るところです。

     また、日本軍は中国において毒ガス兵器(化学兵器)も使用しています(実戦における毒ガス兵器の使用は、第一次世界大戦からすでにヨーロッパ諸国によって行なわれていました)。敗戦後に中国から引き上げる際に、遺棄してきた毒ガスに関しては、1999年に「日本国政府及び中華人民共和国政府による中国における日本の遺棄化学兵器の廃棄に関する覚書」が署名され、2000年から日本が中国で実際に処理作業を始めています。「自虐史観」との見方もありますが、否定できない歴史の事実であることは明白です。

     そして、同様に東京裁判では訴追を免れました。化学兵器についてはアメリカが、将来において自ら使うときのための布石として、不問に付したのです。結果、いまなお後遺症に苦しむベトナム戦争(アメリカの北爆開始1965〜1975)の「枯れ葉剤」など、実戦に使用されています。

     *参考資料:『細菌戦が中国人民にもたらしたもの』日本軍による細菌戦の歴史事実を明らかにする会/明石書店、『ミドリ十字と731部隊』松下一成/三一書房、『731免責の系譜』太田昌克/日本評論社、『731の生物兵器とアメリカ バイオテロの系譜』ピーター・ウイリアムズ、デヴィット・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳/かもがわ出版、『731』青木冨貴子/新潮社、『毒ガス戦と日本軍』吉見義明/岩波書店、『毒ガスと科学者』宮田親平/文春文庫

     なお、唯一インドのラダビノド・パル判事だけが日本の無罪を主張したとされる東京裁判に関し、インド人のM・K・シャルマ氏はその著『喪失の国、日本 インド・エリートビジネスマンの「日本体験記」』(文春文庫)で、インドにおける理解は「(パル)氏が(無罪の)論拠としたのは日本の正当性に関してではない」「このような違法な裁判において被告(日本)を裁くことはできない、ゆえに全員無罪であるという論理に立っている」のであり、「パル氏の無罪の主張をあたかも日本の正義を保証するものとして理解している」のは日本の曲解であるとして批判しています。

     2007年8月23日、安倍晋三首相(当時)がパル判事の長男であるプロシャント・パル氏を訪ねています。日印(あるいはパル判事と、“A級戦犯容疑者”“昭和の妖怪”“CIAのスパイ”など数々の肩書きを持つ祖父である岸信介と)の友好関係をアピールするのが目的のようで、実際にはパル父子を引き合いに出して「日本の無罪」をクローズアップするためのパフォーマンスですから、さぞやプロシャント・パル氏も複雑な気持ちで迎えたことでしょう。

     *参考資料:『パル判事』中里成章/岩波新書、『満州と自民党』小林英夫/新潮新書

    中國茶倶樂部「龜僊人窟」主人 池谷直人


  • 日本における中国茶用語の読み方(4)

    どうでもいいけどひっかかる

    日本における中国茶用語の読み方(4)

     第4回目は「正山小種」を取り上げます。

     「正山小種」は「Lapsang Souchong」か?

     正山小種(せいざんしょうしゅ)は中国紅茶です。確かに英国式の紅茶の世界ではLapsang Souchong(ラプサンスーチョン)と呼ばれています。産地は福建省の北部に位置する武夷山です。そこはまた岩茶の産地としても知られており、さらに世界遺産にも指定されている、風光明媚な場所です。

     正山小種の発音は標準中国語で、それぞれ正「zheng」山「shan」小「xiao」種「zhong」。意味で区切れば正山「zhengshan」小種「xiaozhong」です。中国語の発音が訛って英語と化したといわれるので、英語のLapsang Souchongと対照させてみると、小種「xiaozhong」と「Souchong」は音が近いとわかります。ところが、正山「zhengshan」と「Lapsang」とでは、山「shan」と「sang」は近いものの、正「zheng」と「Lap」は遠くかけ離れています。「正」が「Lap」とはどういうことなのでしょうか?

     福建省のお茶なら福建語の音で対照させてみないと意味がないのは当然です。そこで、調べたところ、「正」は「cheng」または「chia」です。前者は標準中国語の音に通じます。後者は標準中国語にも似ていません。そして、どちらも「Lap」とは似ても似つきません。

     例えば、「白毫」(はくごう)は福建語で「peh ho」で、それが英語の「pekoe」に転訛し、「オレンジペコー」などという際の紅茶用語「ペコー」になったり、同様に「武夷」(ぶい)も「bui」から「bo hea」へと転訛したもので、ジョン・コークレイ・レットサムも1772年刊の『茶の博物誌 茶樹と喫茶についての考察』(滝口明子訳 講談社学術文庫)で使っていたり、これらは近いし似ているし納得がいきます。しかし、「正」と「Lap」の関係はやはりわかりません。

     ここでさらっと福建語といったものの、ひとくくりにできる言語ではありません。中国の方言のひとつで、言語学的に「閩語」といわれます。「閩」はもともと福建地方のことを指します。大きく分けると閩北語と閩南語に二分されます。細かく分けると閩東語(福州中心)、閩南語(厦門中心)、閩北語(建甌中心)、閩中語(永安中心)、莆仙語(莆田中心)に五分されます。武夷山は閩北語圏です。ちなみに、台湾は閩南語圏に含まれ、台湾では「台湾語」とも称します。

     中国で「七大方言」といえば、閩南語は入りますが、閩北語は除かれます。また、「八大方言」まで拡大されれば閩北語も入りますが、南北に二分された場合には閩北語は福州語に代表されます。福州語はややこしいことに、それぞれ大分類では閩北語、細分類では閩東語(つまり、閩東語は閩北語の一部)に分類されるわけです。

     07年夏、3度目の武夷山を訪れ、初めて正山小種発祥の地といわれる星村鎮の桐木村にまで足を延ばしました(香港の茶舗、祺棧茶行では正山小種を「星村小種紅茶」という商品名で売っています)。一般に開放されている観光地よりもはるかに奥まったところです。渓流がより細くより早くなり、一段と自然が野生を剥き出しにします。検問を通過するときにはいささか緊張したものの、その先は大地の懐に包まれる心地よさが感じられました。

     ようやく山里の製茶工場に辿り着くと、裏の竹林が風にそよぎ、ざわめいていました。そこで供された正山小種は、ひとくち含むや龍眼の果汁のごとき味わいが拡がるではありませんか。味見させてもらったものは芽ばかりを摘んだ「金俊眉」という献上用の非売品。購入できるのは芽を多く含んだ、ひとつ下の等級に分けられる「銀俊眉」からですが、それでも十分に甘く香ります。

     正山小種は松の木で燻してつくります。したがって、松の香りがします。香港(および中国、台湾)で使われる竹ひご状の線香は、その成分を松やにで竹ひごに練りつけてあるので、火を点けると正山小種と同じ香りがします。現地で喫んだものもほんのりと松の香りが感じられました。

     ただ、一般に中国茶ショップや紅茶ショップで買えるものは、その香りが強烈で、多く正露丸の臭いに譬えられます。『現代紅茶用語辞典』(日本紅茶協会編 柴田書店)でも「松の煙香が強い特殊な紅茶」と解説されています。

     最上級の「金俊眉」から等級外の「煙小種」(仮小種とも)まで、全7種類をテイスティングしました。龍眼の果汁のごとき味わいは上級のものだけで、松の香りは等級が下がるに連れて強さを増していきます。

     同工場の社長によれば、正山小種とLapsang Souchongは別物。「前者は龍眼の果汁のごとき味わいのある地元消費用、後者は敢えて松の香りを強烈に着けた海外輸出用」とのことです。「かつて中国から正山小種を運ぶのに船で1年も2年もかかったため、強めに燻さないと味も香りもヨーロッパへ着くまでに抜けてしまう」からであり、ヨーロッパの人々にとって長年、喫み慣れた強烈なものが、現在も中国で同じようにつくられ、輸出されているのです。

     なお、正山小種の「正山」とは「まさしく高山」の意で、その「高山」とはここ「桐木一帯」を指し、また「小種」は「紅茶」の意ですから、「桐木で産出された紅茶」ということになります。一方、「正山小種」に対して「外山小種」(人工小種とも)もあり、「桐木以外の地区で産出された紅茶」ということで、質が落ちるものを指します。

     正山小種とLapsang Souchongが別物であることはわかりました。とはいえ、「正」と「Lap」の関係は依然としてわかりません。

     『武夷正山小種紅茶』(鄒新球主編 中国農業出版社)に次のような記述を見つけました。

     ——武夷正山小種紅茶が福州の港から輸出されたことから、国外では福州方言による正山小種の発音「Lapsang Souchong」で呼ぶようになった。福州方言では「松明」を「Le」と発音し、「松材で燻し焙る」を「Le Xun」と発音する。松材で燻し焙った正山小種紅茶なのでLe Xun小種紅茶となった。Lapsangの音はLe Xunからきた音だ。——

     なるほど、「正」と「Lap」が対応しているのではなく、「Lapsang」と「Le Xun」の音が近くて似ている、というわけだったのです。これならおおむね納得できます。ただし、香港で福州出身者を探し出し、実際に「松」や「燻」を福州語で発音してもらったものの、サンプル数が1人と少なすぎのためか、「Le Xun」の音は聞かれず、残念ながら有意な結果は得られませんでした。現地調査をしなければなりません。今後の課題です。

     また、この正山小種が紅茶のはじまりでもあるとされています。『武夷正山小種紅茶』によれば、紅茶がつくられるようになった、すなわち、醗酵(酸化)技術が導入されはじめたのは、明代の16世紀中後期〜17世紀初め、とのことです。

     よく知られた正山小種誕生にまつわるこんなエピソードがあります。

     ——明末のある年、お茶摘みの頃、桐木を北方の軍隊が通りかかった。製茶工場に駐留し、兵士たちは摘んだ茶葉の上に寝泊まりした。軍隊が去ったあと、茶葉は赤く変色していた。主人は慌て急いで茶葉を揉み、赤松の薪を焼べて乾燥させた。すると、茶葉は黒くて艶やかで、松やにの香りがした。緑茶を飲み慣れた当地では、そんなお茶は飲まれない、と遠く離れた星村の市場に売りに行ったところ、思いがけずも翌年になって2、3倍の価格で買い付けたいとの話が舞い込んだ。それ以降、この製法に基づいたお茶づくりが盛んになった。——

     中国からヨーロッパへと最初に輸出された紅茶も正山小種とされています。『武夷正山小種紅茶』では、1610年にオランダ東インド会社が初めてバンタム(ジャワ)で、厦門の人が運んできたお茶を買ってヨーロッパへ持ち帰った、としています。

     『年表 茶の世界史』(松崎芳郎編著 八坂書房)によると、同年同社が長崎の平戸からバンタム(ジャワ)経由で持ち帰ったお茶は日本のお茶だった(大石貞男説)、とあります。もっとも、それが「最初にヨーロッパへもたらされた日本茶」というだけで、「最初にヨーロッパへもたらされたお茶」とはいっていません。

     また、『茶の世界史 緑茶の文化と紅茶の社会』(角山栄著 中公新書)では、同じ事象の記述の中で「これがヨーロッパへもたらされた最初のお茶であるといわれている。もしそうだとすれば、ヨーロッパ人が最初に知った茶は日本の緑茶であったということになる。」としています。

     このほか『年表 茶の世界史』では、1607年「オランダ船が澳門(マカオ)から中国茶を運びこれが欧州に販売された。中国の茶がヨーロッパに直接量的にまとまって売られた最初の記録という。(『飲茶漫話』)」、あるいは、1602年「オランダ東インド会社設立し、明国の茶及び茶器をヨーロッパに紹介しはじめる。(『茶業通史』)」、などとしており、正山小種かどうかはさておき、1610年以前に中国のお茶がヨーロッパへ伝わっていたようです。

     さらには、1600年「オランダで中国の茶樹を試植したが失敗したとテネント(J.E.Tennent)は記している。」ともしていますが、これは飲用目的だったのでしょうか、それとも観賞目的だったのでしょうか。

     ちなみに、お茶がヨーロッパにもたらされたのではなく、お茶をヨーロッパ人が目にしたのは、1517年「ポルトガル人が海路広東に渡来し、飲料たる茶を知ったという。ヨーロッパ人が茶を知った最初とされる。(『栽茶与製茶』)」とあります。

     いずれにしろ、その後のイギリスで、中国からきたお茶により、紅茶文化が花開いていくわけです。そして、その陰では、ボストン茶会事件(1773年)が起こり、アメリカがイギリスから独立する一因となったり、アヘン戦争(1840〜1842年)が起こり、香港が1997年の返還までイギリスの植民地に置かれてしまったり、お茶が世界を変える歴史をつくっているわけです。紅茶に罪はないのに……。

    参考資料(引用順)

     1.『茶の博物誌 茶樹と喫茶についての考察』ジョン・コークレイ・レットサム=著 滝口明子=訳/講談社学術文庫

     2.『現代紅茶用語辞典』日本紅茶協会/柴田書店

     3.『武夷正山小種紅茶』鄒新球/中国農業出版社

     4.『[年表]茶の世界史』松崎芳郎/八坂書房

     5.『茶の世界史 緑茶の文化と紅茶の社会』角山栄/中公新書

    同(その他)

     1.『東方台湾語辞典』村上嘉英/東方書店

     2.『中国茶経』陳宗懋/上海文化出版社

    中國茶倶樂部「龜僊人窟」主人 池谷直人


  • リポート(1) 香港で買うオーガニック中国茶

    リポート(1)

    香港で買うオーガニック中国茶

     いまや、汚染に偽装と「食」の安全や信頼はあてにならないもの、というのが常識になってしまいました。一般的な日本人は中国の食品は頭から疑ってかかる一方、日本の食品は安心と思い込んでいた(あるいは、まだ「思い込んでいる」)かもしれません。したがって、中国で何か起こると「やっぱりね」と素直に納得する反面、日本で同様なことが起こると「えっ、嘘っ、信じられない」と裏切られた気持ちになります。落差が激しい分、衝撃も大きいわけです。元も子もない言い方をすれば、日本の食品(それ以外のものも)が安全で信頼できるなど、しょせん「幻想」に過ぎなかっただけの話。「幻想」ゆえ、一旦ほころびはじめれば、一気に「崩壊」もするでしょう。

     もちろん、確かに日本と中国では程度の差はあります。なにしろ中国のほうが面積も広ければ人口も多いうえに、法も整備されていないし、意識も高くないのですから。中国の某国内紙(電子版)で、「赤い色の液体に浸しただけで巨大化するブドウの栽培」という恐怖の追跡リポートを読んだことがあります(ありえない大きさのブドウは、見れば変だなとわかりますが)。

     ただ、香港という外から見た場合、日本も中国も「危険」ということでは変わらない、と感じられてしまいます。中国の乳製品に気をつけていたら、日本の米製品(そもそも日本政府は、なぜ検査もせずに劇薬まみれの米を買うの? なぜ食料自給率が4割しかないのにずさんな管理で米に黴を生えさせるなど食べ物を粗末にするの? なぜ食べられない工業用の米なのに食品会社に売るの?)を掴まされてしまった、とか……。

     このような状況では、中国茶も怪しい、と思われるのは当然のこと。そこで、香港の茶舗で売られているオーガニック中国茶にはどんなものがあるか、調べてみました。もっとも、産地まで足を運んだわけではなく、あくまでも茶舗がオーガニックと謳って販売している商品に限った点を、お断りしておきます。また、オーガニックの法的な定義が各国・地域によって異なる点も留意ください。さらに、日本茶や紅茶がすべてオーガニックというわけではないのと同様、中国茶がすべてオーガニックでなければいけないというわけではない点も、見落としませんように。

    ◆雅博緑茶(がはくりょくちゃ)=緑茶 HK$168/100g 産地:江西・婺源県

     店名:雅博茶坊 住所:九龍旺角亜皆老街120號C 電話:(852) 2713-7936

     同店の葉恵民氏はこれまで「1万人による茶会」や「チョモランマでお点前」といったユニークなイベントを数多く催したり、香港の上水に茶園を設けて茶樹の育成を試みたりしてきた人物です。近年では江西省の婺源県にある風光明媚な自然保護区内に「善心茶人山荘」なる桃源郷のようなものをつくり、お茶を中心とした文化・芸術・保養の拠点にしなんとしています。

     婺源は古くからお茶の産地として知られ、現在ではお茶をはじめ、野菜、果物、各種食品まで、オーガニックでの生産に力を入れているようです。そこで採れるお茶を「雅博緑茶」として販売しているのです。パッケージにオーガニックの表示はないものの、オーガニックである旨を教えてくれます。

    ◆生態緑茶(せいたいりょくちゃ)=緑茶 HK$160/100g 産地:四川

     生態紅茶(せいたいこうちゃ)=紅茶 HK$120/100g 産地:福建

     店名:茶藝樂園 住所:九龍尖沙咀彌敦道36號 重慶站購物商城2樓136A-B舗 電話:(852) 2311-7270

     尖沙咀支店が08年9月から現在の場所に移転しました。さすがに香港一の品揃えを誇る同店だけあり、オーガニックのものも緑茶と紅茶の2種類を置いています。ただし、毎年新茶があるとは限らないようです。

     さて、この場合の「生態」とはいったいなんのことでしょうか。本来「パンダの生態」という使い方をする言葉です。最近では環境用語として、ときに「エコ(エコロジー)」の意味で使い(たとえば「生態旅游」は「エコツアー」、「生態商務」は「エコビジネス」など)、ときに「有機」つまり「オーガニック」の意味で使います(元々「生態」は英語で「ecology」ですが)。「生態食品」といえば、ずばり「有機食品」「自然食品」のことです。

    ◆金桂冠(きんけいかん)=青茶 HK$100/50g 産地:福建・安渓県

     碧玉観音(へきぎょくかんのん)=青茶 HK$100/50g 産地:福建・安渓県

     紅玉観音(こうぎょくかんのん)=青茶 HK$50/50g 産地:福建・安渓県

     店名:三思堂 住所:香港銅鑼灣謝斐道506號 聯成商業中心1101室 電話:(852) 2892-2463

     金桂冠は烏龍種に鉄観音種を接ぎ木した珍しいお茶です。現地の農家と共同でつくった同店のオリジナルです。香港の検査機関である香港標準及検定中心(センター)により、農薬検査の結果、安全が確認されています。

     碧玉観音と紅玉観音も農家に依頼して新たに畑を起こすことから始めてつくった同店のオリジナルです。こちらのふたつはわざわざ日本の検査機関、食環境衛生研究所に検査を依頼しており、厚生労働省通知の試験法に準ずる分析方式で168項目に及ぶ残留農薬一斉分析を行ない、「全項目検出されませんでした」とのお墨付きを得ています。

     いずれのお茶もパッケージに検査結果報告書(分析結果一覧を含む)のコピーが入っています。

    ◆有機白牡丹(ゆうきはくぼたん)=白茶 HK$60/100g 産地:福建

     台湾有機烏龍(たいわんゆうきうーろん)=青茶 HK$80/100g 産地:台湾・鹿谷郷

     店名:林奇苑 住所:香港上環文咸東街105-106號 電話:(852) 2543-7154

     同店のような老舗といえどもトレンドには敏感で、白牡丹と台湾烏龍にオーガニックのものを置いています。

     前者はお茶摘みのあと萎凋(しなびさせること)、殺青(加熱すること)、乾燥だけと、つくり方がシンプルゆえに農薬を使うと残留しやすいお茶です。

     後者は近年になって台湾でも食の安全に対する意識が高まるに連れ、オーガニックのものが増えてきていることから生まれたひとつです。かつ、焙煎も従来より強めにする傾向があり(というか、伝統的なつくり方に回帰している、といったほうがよいかもしれません)、このお茶もいくらか中程度に近い焙煎になっています。

     ちなみに、鹿谷郷は台湾の中部山岳地帯、南投県にあり、凍頂烏龍など多くの銘茶を産するお茶どころです。

     ※以上、九龍サイド、香港サイドの順で、店名の「あいうえお」順。

     さて、最後にもう一言。中国茶とひとからげにしないことです。本当に上等、上質でよいお茶はあえていわなくてもオーガニックが当たり前。農薬や化学肥料を使ってしまっては、ものによっては数百年間もその土地で育まれ続けたことで生まれた、そのお茶ならではの味や香りが出ませんから。

     毒入り餃子(これは明らかに危険)事件のあと、日本の報道で「中国茶も危ない」と騒ぎを煽り、残留農薬が基準値の何十倍の濃度で検出された、と書き立てる記事もありましたが、いったいどのランク、どのレベルの茶葉を検査したのか知りたいものです。意図的に(あるいはたんに無知からか)最低、最悪の茶葉を選んで検査したのではと勘ぐってしまいます。

     危険な茶葉があることは紛れもない事実です。しかし、すべてが危ないわけではありません。ひとからげにせずに、ひとつずつ吟味することです。

     では、美味しく楽しく喫みましょう。

    中國茶倶樂部「龜僊人窟」主人 池谷直人


  • 日本における中国茶用語の読み方(3)

    どうでもいいけどひっかかる

    日本における中国茶用語の読み方(3)

     今回は前回の補足です。

     実はあとになって気づいたことがあったので、急遽、書き足すことにしました。もっとも、内容は寄り道したほうの話で、本題とはまったく無関係です。

     「匂」(におい)と「韻」(ひびき)の関係から、「嗅ぐ」のではなく、「聞く」のであるということ。これに関連する『匂いの帝王 天才科学者ルカ・トゥリンが挑む嗅覚の謎』(チャンドラー・バール=著 金子浩=訳/早川書房)という本があります。ルカ・トゥリンという科学者が、「匂」は形状か振動かという議論について、後者の立場で述べています。

     「トゥリンは匂いという暗号を解読するための最初の鍵を手に入れたのだった。それは数字だった。波長だった。電子振動だった。2500という波数だった。その数字がふたつの同値の記号(S-HとボランのB-H)、ふたつのまったく異なる分子を、腐った卵の匂いというひとつの意味に繋いでいた。しかもふたつの分子は形がまったく異なっていた。トゥリンの見るかぎり、解釈はひとつしかありえなかった。どちらも振動数が2500なのだ。その振動が匂いを持っているのだ。」

     「韻」とは、まさに振動です。そして、同書では「匂」も振動だといっているのです。

     「こうした電子結合の特徴は弾力性だ。それぞれの原子を引き離してからぱっと離すとする。バネの強さと、そのバネにどれだけの原子が繋がっているかによって、原子の組み合わせはそれぞれに異なる音を鳴らす。まるでピアノの弦が弾かれて震え、変ロ音やト音を鳴らすように。ある結合はものうげに振動してゆっくりと深いバスで、ある結合はやや早いテノールで鳴る。明るいアルトやもっとも高いソプラノで鳴る結合もある。またピアノの弦と同じで、(ニ音の弦はニ音しか発しないように)原子と結合の組み合わせはどれも特定のひとつの振動数に調律され、その音でしか鳴らない。その音——その振動——を科学者は“波数”と呼ぶ。」

     さらに、すばり音楽そのものによって説明しています。

     ——と、このように延々と説明してきたものの、「匂」は形状か振動かの結論は、同書が発行された翌年の2004年、前者に軍配が上がっています。つまり、コロンビア大学のリチャード・アクセル博士とフレッド・ハッチントン癌研究所のリンダ・バック博士が、「匂い受容体遺伝子の発見と嗅覚メカニズムの解明」によってノーベル医学生理学賞を受賞したからです。その研究は形状説であることから、振動説は否定されたというわけです。

     ただ、だからといって「匂」と「韻」の関係、「嗅ぐ」のではなく、「聞く」のであるということまで否定されたわけではありません。アクセルとバックの研究はたんに、やはり「匂」は耳ではなく鼻で感じるもの、と改めていっているにすぎません(念の為。貶めているわけではありません。研究が偉大であることは言わずもがなです。ちなみに、トゥリンの振動説も当然ながら耳で感じるという意味ではありません)。微妙な感覚を表現する方法としては、「匂」を「聞く」は依然有効です。

     また、同書も価値がなくなってしまったわけではありません。さまざまな「匂」の表現が溢れ出るところはトゥリンも本当に「天才」だからでしょうし、香水業界の内幕など、興味を惹く話が豊富なのも事実です。

     最後に同書の「BOOK」データベースを引用しておきます。

     「最先端の科学をもってしても、いまだ解明されない匂いのメカニズム。この超難解な謎にとりくんだ一人の天才科学者がいた。彼の名はルカ・トゥリン——。グレープフルーツと熱い馬、汗まみれのマンゴー、真っ黒なゴムの花、スクランブルエッグにガソリン——若くして香水に魅せられたトゥリンは、どんなに複雑な香りでも即座に特徴をとらえ言葉に置きかえる。香水業界の化学者からも一目置かれるその特異な才能のおかげで、秘密主義の香水企業の研究室にも自由に出入りしはじめたトゥリンは、クリスチャン・ディオール、カルヴァン・クライン、ジヴァンシーなどの、大企業の内幕を覗きみるようになる。やがて、並外れた知性と能力をもとに、嗅覚のしくみを解く新理論を編み出すが……いま、世界じゅうに注目されている天才科学者の半生を追った衝撃のノンフィクション。」

    中國茶倶樂部「龜僊人窟」主人 池谷直人