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新・リポート(2) お茶の歴史を韓国に巡る〈資料編〉

新・リポート(2)

お茶の歴史を韓国に巡る〈資料編〉

2024年11月14日~17日の日程で釜山(智異山を含む)へ研修旅行に行って参りました。研修旅行としての釜山は2度目、ちょうど10年前に訪れています。「ご案内」で予告したように、「日本(とりわけ九州)とのつながりから韓国のお茶について学ぶ」という点では前回と同じテーマではありますが、今回はさらに「韓国茶礼・茶道」という視点に絞り、見て回りたいと思います。

なお、香港(中國)茶倶樂部HP「備忘録」2011年5月2日(江南編)および2012年5月1日(九州編)と併せてご覧いただくと、日本・中国・朝鮮半島の3箇所におけるお茶を中心とした相互に関連する文化や歴史が概観できるはずです。

新・リポート(1)として2024年5月19日~22日の九州編は追って上げます。

釜山は伽耶だった! 日本との交流の歴史

まず、釜山について。

この辺りはかつて“任那日本府”とされた地域に重なります。720年に成立した『日本書紀』に記載があります。当時の“大和朝廷”(4世紀前後)が朝鮮半島に設けた出先機関で、朝鮮半島の一部を支配していた証拠とされていました。もっとも、それはあくまでも日本側から見た史観であり、現在では否定されています。あの検閲機関である文科省さえ「近年は任那の恒常的統治機構の存在は支持されていない」としています。

ちなみに、1980年以降、“大和朝廷”ではなく、「大和政権/ヤマト政権」あるいは「大和王権/ヤマト王権」、時代区分としては「古墳時代」が使われています。

韓国では“任那”ではなく、「伽耶」(諸国連合)と呼ばれています。香港で私が贔屓にしている韓国料理レストランの「伽耶」は、ここが由来です。それはともかく、当然、韓国側からすれば日本側の史観など受け入れられる道理などなく、独自に「伽耶」の歴史を解明しようと努めています。そのあまり、日本の痕跡を全否定する論もあります。ただし、そういうナショナリズに基づいた極端な見方は韓国も前述の日本も同じ。純粋に歴史的な事実として日韓双方が認めているのは、大和/ヤマト(日本)の「統治機構」はなかったものの、倭族(日本人)が居住していた痕跡は残る、ということです。

なお、“任那”と「加羅=伽耶」の語は『宋書』(451年条)をはじめとする中国側文献にも「任那・加羅」、広開土王碑文(414年建立)など韓国側文献にも「任那加羅」とあります。

朝鮮半島には日本の民が住んでおり、同様に日本列島には朝鮮の民が住んでいたわけです。『日本書紀』を読めば、厳密にどこまでが事実かは別としても、ほとんどが日朝関連の記述で、驚きます。そもそも日本にはもともと多くの渡来人(中国大陸か朝鮮半島かを問わず)が居住していることがわかっています。2001年、68歳の誕生日の記者会見で、自らも百済王とのかかわりを認めた、あのやんごとなきお方も含めて。

今春の九州研修旅行では見逃していますが、宮崎県の天岩戸神社の南方に位置する神門神社(718年創建)には百済王族「禎嘉王」が、比木神社(どの資料にも1800年前に創建としかない)にはその子「福智王」が祀られており、前者本殿(1661年建立)は重要文化財に指定されています(※このあたりの事情については2024年版九州編をお待ちください)。また、2012年の九州研修旅行では佐賀県の李参平神社も訪れました。「李参平」は有田焼の祖と呼ぶべき陶工です。豊臣秀吉による侵掠戦争「文禄(1592年)・慶長(1599年)の役」の際に朝鮮半島から拉致されてきました。

韓国のお茶の始まり

その際に釜炒り製茶も一緒に伝わったといわれます。もちろん、その前に中国から朝鮮半島に入っているはずで、日本には朝鮮半島経由でもたらされたことになります。となると、日本へのお茶の伝播は直接中国からと韓国経由とのふたつがあるということです。ただ、どうしても、805年に帰朝した最澄や806年に帰朝した空海など、仏教界の巨星たちのほうが目立つため、直接中国ルートばかりが注目されてしまいます。しかし、九州と朝鮮半島の関係の緊密さから、その後、蒸し製茶が日本全体では主流となっていっても、九州では韓国や中国と同じ釜炒り製茶が多く残ることになります。時代的に直接中国ルートは点茶(抹茶の原形)、韓国経由ルートは煎茶となるでしょうか。

さて、その韓国でのお茶の始まりについては、先に述べた中国説とともに、実は何とインド説もあるのです。

中国説とは、『三国史記』(1145年。新羅・高句麗・百済の三国時代から統一新羅にかけて紀伝体で記した朝鮮半島最古の史書)によれば、新羅の興徳王の臣下である大廉公が唐(618~907)から持ち帰った茶の種を智異山に植えた、とあります。その碑が雙磎寺(840年開山)の門前に建ちます。

インド説とは、『三国遺事』(13世紀頃の史書だが、信頼性に乏しいとされる)によれば、金首露王が駕洛国(42年。伽耶の諸国連合のうちのひとつ)を建国し、インドの阿踰陁国の許黄玉を皇后として迎えた際(48年)、嫁入り道具のなかにインドのお茶があった、とあります。その後その7人の王子が智異山で修行して成仏したあと、7人の姿が映るとされる池「影池」が七佛寺に残っています。もっとも、近年の研究では、許氏一族はインドから現在の四川省に亡命していたことから、嫁入り道具のなかのお茶はおそらく四川省産のお茶であろうといわれます。『三国遺事』らしい結末となりました。とはいえ、駕洛国では以降、祭事の供物として酒や食物とともにお茶も含むとのこと。また、国の滅亡後もその末裔がお茶を供える儀式を、現在に至るまで継承しているということです。

中国説、インド説(正確には破綻しているが)、いずれにしろ韓国のお茶の始まりは智異山ということになります。なお、「うちこそが韓国のお茶の始まりである」と名乗るところは複数ありますが、今回は雙磎寺と七佛寺を選んだしだい。日本でも「うちが日本で最初の茶園」とか「うちのお茶がペリーに供された」とか、やはり複数あります。まあ、私も趣味人ではあっても研究者ではないので、ある程度は突き詰めたいと思う反面、それぞれの言い分を聞いて楽しもうかと。

インド説について補足すると、日本では736年の奈良時代に、インド出身の僧である菩提僊那が来日してベトナム出身の僧である仏哲と会っているとか。菩提僊那が日本にお茶をもたらしたといいたいわけでなく、意外にもそんな昔から国際交流は盛んだったのだなという感想です。そういう意味では、奈良の大仏建立の責任者で日本初の「大僧正」になった行基も中国系朝鮮人で日本に“帰化”した渡来人ですし、長安で密教を学んだ空海も現地で仏教以外にネストリウス派キリスト教、ゾロアスター教、マニ教などとも接触があったようですし、1443年に李氏朝鮮(1392~1910年)第4代国王の世宗がハングルを制定したとき、中東出身の医師に死去した臣下の口から咽にかけて解剖させ、発声の原理から研究して理に適った言語にしたとも(韓国の歴史ドラマから得た知識ですので真偽のほどは……。ただし、極めて論理的につくられ、かつ人口言語で唯一、文学作品まで生み出した言語である、と世界で認められている点は間違いない)。

産業面から見た韓国のお茶

韓国の主要茶産地は智異山の一部を擁する河東郡(慶尚南道)をはじめ、寶城郡(全羅南道)、西帰浦市(済州道)の3箇所。今回訪問する茶農家も河東郡にあります。かつて伺った際には郡全体が農薬禁止エリアのため、EUに輸出できるとのことでした(日本の農産物はEU基準を満たせないものが多いとお茶の輸出業者やワイン業者から聞いたことがある)。今回も10月にはヨーロッパに出張していたようです。シーズンではないのが残念ですが、茶樹に触れることくらいはできるかと。もちろん試飲も。紅茶もあるはず。以前は韓国の「錢茶」(銭形平次が投げる糸を通した寛永通宝のような固形茶。黒茶?)も見掛けました。

主要産地別の緑茶生産状況(2010年)※長崎県立大学東アジア研究所「東アジア評論」第4号(2012.3)

区分 全羅南道 慶尚南道 済州道 その他 韓国全土
面積(ha.) 1,599 1,145 354 166 3,264
割合(%) 49.0 35.1 10.8 5.1 100
生産量(t.) 2,291 648 502 145 3,586
割合 63.9 18.1 14.0 4.0 100

寶城郡・河東郡・西帰浦市の緑茶生産状況 ※同上収載の資料に基づいて池谷が作成

区分 栽培面積(ha.) 生産量(t.) 農家数(戸)
2005年 2008年 2005年 2008年 2005年 2008年
寶城郡 886  1,164 1,246  1,327 982  1,097
河東郡 679  1,018 364  698 1,757  1,791
西帰浦市 302  302 481  481 53   53

上記ふたつの表は緑茶のみですが、紅茶と青茶も少ないながら生産しています。ちなみに、韓国では青茶(半発酵茶)のことを「黄茶」と呼ぶため、中国茶の黄茶と紛らわしく、注意が必要です。さらに、紛らわしいことに、最近では中国茶の黄茶と同じようなつくり方をするお茶があるような……。今回はそれを確かめる目的もあります。人間の脳は岩茶だと言って飲まされると、単叢でも岩茶だと思い込んでしまうもの。韓国の黄茶など飲み慣れないお茶は特に。そういう脳の働きに抗い、あくまでも自分の舌(味)と鼻(香り)で判断したい。

飲料市場におけるお茶の消費量はどうなのでしょうか。表を見る限りは栽培面積も生産量も増えているようですが。別の統計によると、河東郡の緑茶生産量のうち高級茶は15%で、85%がティーバッグとなっています。ペットボトルのお茶の普及率がどのくらいかは不明。それによっては輸出入量も変わってくるはずですし、今後も美味しい韓国のお茶が飲めるかどうかにもかかわってくるので、今回情報があればよいのですが。

仏教との関係 茶礼

よくいわれることですが、韓国ではトウモロコシ茶、麦茶、柚茶を飲むのでは、と。あるいは、仏教弾圧のおかげでお茶(緑茶)が消えたのでは、と。確かに日本やイギリス同様、リーフで飲むことは減ったかもしれません。その前の米ソ対立の朝鮮戦争(1950~1953)、さらに前の日本の侵掠戦争(日清戦争1894年~第二次大戦1945年)の影響で、お茶の栽培どころではなかったでしょう。しかし、ほそぼそではあるものの、一貫して飲まれ続けてきました。

仏教弾圧は李氏朝鮮時代に儒教が国教とされたために起こりました。国家の保護を受けた時代もありながら、仏教は賎民階級に落とされてしまいました。それまで1万以上にものぼった寺院の数も242にまで減らされ、建物も破壊され、寺領も没収されたといいます。中国でも日本でも、そして韓国でも、お茶と仏教(とりわけ禅宗)との関係は深く、お茶の普及には仏教なくしてはありえなかったのは事実です。栽培も寺院がしていたのですから、お茶が飲めなくなるのは当たり前です。王室の祭礼や国賓の接待に「茶礼」という、お茶によるもてなしも行なわれていましたが、それも18世紀後半から廃れていきました。そのため、代用としてのトウモロコシ茶の類が飲まれるようになるのです。そして、19世紀になってようやく復活の兆しが見えてきます。きっかけは、韓国の陸羽と比される草衣禅師(1786~1866年)の登場。お茶の栽培から始まり、「茶道」を実践し、多くの文人・学者らと集って茶詩の交流に勤しみ、これまた韓国の『茶経』と称される『東茶頌』を著したり、中国の『萬寶全書』からお茶に関する項目だけを抜粋して『花神伝』を編纂したりした人物です。

儒仏道の融合が喫茶を維持継承

ところが、実は、それでもお茶を飲む火は消えたことがなかったのです。僧侶たち以外にもお茶を継承している者がいたから。それは儒者でもなく仏者でもなく道教あるいは仙道の徒です。といっても、道教は統一された教団組織を持たないため、民間信仰の内に吸収され、人知れず活躍しているのです。

道教の根本教義は「不老長寿」です。徹底した現生利益を追求した結果、健康で長生き、なんなら死なないことを目指すことに。そのために、中国の漢方を代表とする伝統医薬(日本にも韓国にもある)、鍼灸、按摩(マッサージ)が発達したといわれます(もっとも、古代には不死の肉体を求めて水銀を飲んで死んでしまい、死を「昇仙(仙人になった)」と言い換えたという話もあるが)。薬用のみならず茶を喫することで、禅宗の僧侶のように、頭脳と精神をすっきりはっきりさせる意味もあります。

同様な存在は日本にもいます。深山で修行しつつ、加持祈祷をし、生薬を処方し(茶につながる)、衆生の救済に当たる山伏です。山伏が仏教・神道・道教=仙道に日本の民間信仰の習合を体現している存在というわけです。ただ、明治政府が「神仏離令」を発し、神道か仏教かどちらか選べと迫った結果、その他の要素が薄れていってしまいました(※このあたりの事情についても2024年版九州編をお待ちください)。

『中国の茶書』に散見する道教=仙道の記述

平凡社刊の『中国の茶書』は布目嘲渢と中村喬による、文字通り『茶経』をはじめとする中国の古典茶書10冊をまとめて翻訳・注釈したもの。そのなかに全9箇所、道教や仙道にまつわる記述がみつかります。例えば、「仙人に遭遇した」とか、「葛洪」や「陶弘景」などの道士(仏教でいえば僧侶に相当)の名前とか、老子(道教では道教の開祖とされるが、厳密にいえば道家哲学の領袖。つまり、宗教家ではなく哲学者)の言葉の引用とか。道家は儒家の聖人君子を目指す思想とは正反対で、自由奔放に生きる「無為自然」の道を唱えます。改めてよく考えてみれば、仏教あるいは儒教よりも道教あるいは道家のほうが、お茶を喫する態度に合っているのではないのでしょうか。

井戸茶碗を焼く窯  

日本の茶道で「井戸」といえば、最もよく知られた高麗茶碗。「一井戸、二樂、三唐津」といわれるほど。李氏朝鮮時代の前期にそれを焼いていた窯が河東にあります。陶器のように見えますが、白磁だそうで、元々は祭器だったという説が有力に。素人目にも「わび」は感じられるかも。京都の樂美術館で見た樂茶碗の重厚な「わび」とは違う、儚さなというか。

井戸茶碗の「七つの約束」とは。谷晃の『わかりやすい高麗茶碗のはなし』(淡交社)によると、

一.肌が枇杷色をしている

二.轆轤目が見られる

三.カイラギが内外に見られる

※カイラギ(梅花皮)とは、掛けられた釉薬が滅によってちぢれる、白く固まっているもの

四.高台が竹節状になっている

五.高台内に兜巾が見られる ※兜巾とは、高台の真ん中あたりにある先の尖った盛り上がり

六.細かな貫入が走る

七.見込みが深く彫り込まれ、杉なりになっている

※見込みが平らではなく、丸く彫り込まれ、杉の木の先端のよう

このほかにも特徴があり、上記写真左の「大井戸(名物手井戸)」は全体に大型(つい金継ぎのある景色に目がいってしまう)、同右の「青井戸」は釉薬が青色で、直線的に開き気味。「小井土」「井戸脇」「小貫入」などもあり。

千利休が生きた時代と被る井戸茶碗の窯を見ます。現代の作品を買えるようですが、果たして気になるものはみつかるのか。

あくまでもサラッと駆け抜けただけなので、もっと詳しく知りたい人は下記の参考文献をご覧ください。また、まったく興味がないのに最後までお付き合いくださった方は、申し訳ありませんでした。お疲れ様でした。途中でめげた方がほとんどだと思いますが、完読し、興味を持たれた方には御礼を申し上げます。ありがとうございました。

参考文献:

『伽耶/任那 古代朝鮮に倭の拠点はあったか』(仁藤淳史)中公新書

『日本書記 全現代語訳』上・下(宇治谷孟)講談社学術文庫

『日本書紀 成立の真実 書き換えの主導者は誰か』(森博達)中央公論新社

『日本の中の朝鮮文化』全12巻(金達寿)講談社文庫

『韓国の茶道文化』(金明培)ぺりかん社

『日本と韓国 茶の文化考』(長野覺、権兌遠)海鳥社

『朝鮮半島の食と酒 儒教文化が育んだ民族の伝統』(鄭大聲)中公新書

『中国の茶書』(布目潮渢、中村喬)平凡社東洋文庫

『わかりやすい高麗茶碗のはなし』(谷晃)淡交社

『中国・韓国やきものと茶文化をめぐる旅』(谷晃)淡交社

『千利休』(村井康彦)講談社学術文庫

『古代朝鮮と倭族 神話解読と現地踏査』(鳥越憲三郎)中公新書

『古代中国と倭族 黄河・長江文明を検証する』(鳥越憲三郎)中公新書

韓国における主要3茶産地形成期のリーダーの役割-寶城郡,河東郡,済州道を事例に-

https://core.ac.uk/download/pdf/59167335.pdf

韓国における茶産業の展開と産地システム

http://reposit.sun.ac.jp/dspace/bitstream/10561/1068/1/v4p173_tamura.pdf

韓国の茶文化

https://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience/44/3/44_193/_pdf

朝鮮半島と日本の「茶」文化の違いについて

http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/nikkantya.pdf