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  • リポート(2)お茶の歴史を江南に巡る〈資料編〉

    リポート(2)

    お茶の歴史を江南に巡る〈資料編〉

     今回の文章は、2011年4月1日〜5日にかけて催行した研修旅行のための資料として書いたものに、加筆したものです。訪れる前に書いたものを〈資料編〉とし、後に書いたものを〈紀行編〉とする予定です。

     訪れた先は中国の緑茶の産地である江南です。中国から日本へと伝わったお茶の歴史を、ごく一部ながら、俯瞰するのが目的でした。

     後半は暴走気味の感もあるでしょうが、そういう歴史(どういう歴史かは本文をご覧ください)を直視しないで、お茶だけに目を向けることができないものですから。

     中国におけるお茶の生産量の約7割は緑茶です。緑茶を喫み慣れた日本人にとっては受け容れやすいのですが、逆に日本の緑茶を喫み慣れているがゆえに、なかなか受け容れられない中国の緑茶もあります。

     そうしたなか径山茶は素直に「美味しい」と言えるお茶です(もちろん上質なものに限ります)。

     径山茶、また、径山香茗ともいいます。浙江省の余杭と臨安(南宋=1127〜1279=の首都と同じ名で、現在の杭州のこと。現在の臨安に当時の名が残っているのでしょう)にまたがる径山に産するので、そう名づけられました。余杭も臨安も龍井茶の産地である杭州に隣接しています。

     栽培の歴史は遠く唐(618〜907)の時代にまでさかのぼります。同山には同じく唐代に創建された臨済宗の径山寺(径山興聖萬壽禅寺)があります(日本の臨済宗の宗派のひとつ「興聖寺派」は、千利休の後継である古田織部が虚応円耳を開山として1603年に創建した京都の興聖寺を本山としますが、径山寺と関係があるのでしょうか)。お茶と仏教、とりわけ禅宗とのかかわりが深いことを考えれば、ともに発展してきたであろうと納得できます。実際、陸羽も滞在しています。

     もっとも、陸羽が愛したお茶は、径山茶ではなく、晩年を過ごした太湖の畔の湖州に産する顧渚紫笋茶です。

     顧渚紫笋、また、湖州紫笋、長興紫笋などともいいます(顧渚、湖州、長興はいずれも地名です)。紫の由来は産毛が紫がかった色から、笋(タケノコ)の由来は二説あり、一説には茶葉の形状がタケノコのように見えるところから、一説には茶葉の香りがタケノコのようであるところから、きているそうです。

     *参考資料:『中国茶経』陳宗懋/上海文化出版社、『茶聖陸羽』成田重行/淡交社

     径山寺は南宋の五山のひとつに数えられます(あとのよっつは雲隠、天童、浄慈、育王。もとをたどれば印度の五精舎にならって制定。さらに日本が中国にならって鎌倉五山=建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺と、京都五山=南禅寺、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺を制定しました)。全日本煎茶道連盟によれば、同寺の茶宴儀式および茶宴用具一式が日本に伝わり、茶道の源になったとされます。

     また、雑学として、金山寺(径山寺)味噌の源でもあり、1254年に帰朝した心地覚心(法燈国師)が伝えたとのことです(真言宗の開祖である空海が唐の金山寺から持ち帰ったとの説もあります)。

     さて、味噌はともかく、お茶が日本へもたらされたのは奈良時代(710〜794)といわれます。その前後の時代には日本から、遣隋使あるいは遣唐使と呼ばれる国使が隋(589〜618)や唐に派遣され、のちに日本の各宗派を興す有名な僧たちも、仏教を勉強するために留学しています。彼らは当時世界の最先進国であった中国から、さまざまな文物を持ち帰ります。そのなかにお茶も含まれていました。

     では、お茶を日本へもたらしたのは具体的に誰でしょうか。諸説あるものの、よくいわれるのは天台宗の開祖である最澄です。804年に遣唐使の一員として唐へ渡り、805年に帰朝した際に携えていたのでしょう。同様に空海も806年に持ち帰っているようです。しかし、平安時代(794〜1192)ではなく、奈良時代にはもたらされていたわけですから、最初ではありません。

     『[年表]茶の世界史』(松崎芳郎/八坂書房)によると、日本でいちばん古い記録は729年で、「行茶の儀有り(『公事根源』)」とあり、次いで748年に「行基が茶木を植えた(『東大寺要録』)」とあります。

     行基は奈良の大仏建立の責任者に任じられ、日本で最初の「大僧正」となりました。その師である道昭は653年に遣唐使として唐に赴き、あの孫悟空を手玉に取った三蔵法師に教えを受けています。行基は660年に帰朝したあとの道昭からお茶の種を譲り受け、苗木に育てた茶樹を、のちになって植えたかのかもしれません。あるいは、736年に来日した印度出身の僧である菩提僊那がチャンパ王国(越南)出身の僧である仏哲と唐の僧である道璿を出迎えた際に贈られたお茶の種もしくは苗木を、植えたかのかもしれません——と、想像をたくましくしたものの、『公事根源』も『東大寺要録』も、それぞれ1422年、1106年とかなり後年の編纂なので、『日本茶インストラクター講座I』(NPO法人日本茶インストラクター協会)は「検証は難しい」「確認することはできない」としています。結局、同書が確認できる最も古い文献として挙げているのは『日本後記』(792〜833年を記し、840年に成るため、リアルタイムで編纂された史書というわけでしょうか)で、815年に「大僧都永忠、手自ら茶を煎じて奉御す」とあるとしています。永忠は805年に帰朝するまで30年の在唐経験があり、仏教とともに喫茶についても勉強してきたといいます。

     お茶を日本へ最初にもたらした人物ははっきりしませんが、拡めた人物ははっきりしています。臨済宗の開祖である栄西です。『喫茶養生記』なるお茶の効能について記した書も残しています。

     栄西は生涯に2度、中国へ渡航しています。1度めは1168年から5カ月間、2度めは1187〜1191年の4年間。当時の中国は南宋の時代でした。

     栄西が修行したのは天台山の万年寺、太白山の天童寺です。仏教の勉強もさることながら、当時この辺りで盛んに喫まれていた抹茶についても強い興味を持った栄西は、帰国に当たってお茶の種ないしは苗を荷物に詰めたのです(現在でも天台雲霧茶あるいは華頂雲霧茶というお茶がつくられています)。その後、長崎平戸の千光寺と佐賀背振山の霊仙寺に種を蒔いたか苗を植えたかしたのをはじめとし、日本各地に茶園が形成されていったというわけです。

     *参考資料:『中国 名茶紀行』布目潮風/新潮選書、『ティーロード 日本茶の来た道』松下智/雄山閣出版

     栄西が持ち帰った種なり苗なりの源流が、径山茶だという説があります。なるほど栄西が修行で径山寺に立ち寄った可能性はあります。

     『中国茶経』(陳宗懋/上海文化出版社)によれば、「かつて日本から高僧が径山寺を訪れ、仏教を研究したのち、お茶の種も携えて帰国した。日本の茶道の儀礼は同寺で行なわれていた茶宴の儀礼が元になっている」といいます。さらに、『清茗拾趣』(〈中国茶文化大観〉編集委員会/中国軽工業出版社)にも、「径山雲霧茶」として次のような話が載っています。

     ——むかし径山に老夫婦が住んでおった。その家の前に古い甕(かめ)がほったらかしにされており、中には雨水が溜まっておった。ある日、通りがかりの商人が、甕を買いたいと手付金を打って帰っていった。老夫婦は甕を洗って待っておった。

     ところが、商人が欲しかったのは甕そのものではなく、中の雨水のほうだった。溜まっていたのは雨水ではなく、天宮で飼われている金鶏の尿で、万病を治す仙薬だったのだ。誤って尿を棄ててしまった場所には、朝になると霧が立ち、18本の灌木が生えてきた。3年経って成長した葉をお茶にして喫むと、なんとも清らかな香りがした。

     老夫婦は道行く人にこのお茶を振る舞い、種を分け与えた。その種のひとつが海の向こうの日本にも伝わったとさ——

     途絶えていた径山茶の生産は、1978年に再開されました。当時のものとは別のものでしょうし、そもそも果たして日本茶の源流なのかどうか、真偽のほども定かではありません。が、現在のものが美味しいということには、疑いを挟む余地のない事実ですので、とりあえず喫みながら謎を追う……というよりも、歴史のロマンに浸ってみましょう。

     ただ、中国から日本へとお茶が伝わっていく歴史のロマンを打ち砕く、20世紀の歴史があったことも忘れてはなりません。

     空海も最澄も栄西も、はるか日本から海を渡って中国に第一歩を踏み締めた地点は、寧波の港でした。空海と最澄は第18次遣唐使として804年に辛くも辿り着き、空海は唐の都である長安へ向かったのち醴泉寺や青龍寺で、最澄は隣接する天台に赴いて国清寺で、それぞれ学びました。栄西は先述のように2度にわたって留学し、天台山の万年寺、太白山の天童寺で、また、栄西の孫弟子にあたる曹洞宗の開祖である道元も同じく天童寺で、それぞれ学びました。

     仏教のみならずそのほかの面でも日本に多大な影響を与えた僧たちの上陸地点であるその寧波に、こともあろうか日中戦争時に日本軍はペスト菌をばら撒いたのです。細菌兵器(生物兵器)の研究・開発、および人体実験を行なったことで知られる満州の「731部隊」ですが、そのほかにも北京の1855部隊、南京の1644部隊(寧波にペスト菌をばら撒いた主力部隊)、広東の8604部隊など、中国各地に細菌戦部隊が展開され、実戦に使用されました。

     戦勝国による不公平な裁判との批判もある東京裁判では、「731部隊」のことはいっさい審議されませんでした。理由はその「成果」をアメリカに引き渡すことで免責されたからです。その後に続く米ソ冷戦に備えてアメリカが密かに独占したわけです(ある意味こっちのほうが「不公平」だと思います)。実際にアメリカは朝鮮戦争(1950〜1953)で使っています。

     ちなみに、免責された「731部隊」の責任者である石井四郎の片腕だった内藤良一をはじめとする部隊員たちによって設立されたのが「ミドリ十字」(現在の三菱ウェルファーマ)で、「薬害エイズ」の元凶となったことは誰もが知るところです。

     また、日本軍は中国において毒ガス兵器(化学兵器)も使用しています(実戦における毒ガス兵器の使用は、第一次世界大戦からすでにヨーロッパ諸国によって行なわれていました)。敗戦後に中国から引き上げる際に、遺棄してきた毒ガスに関しては、1999年に「日本国政府及び中華人民共和国政府による中国における日本の遺棄化学兵器の廃棄に関する覚書」が署名され、2000年から日本が中国で実際に処理作業を始めています。「自虐史観」との見方もありますが、否定できない歴史の事実であることは明白です。

     そして、同様に東京裁判では訴追を免れました。化学兵器についてはアメリカが、将来において自ら使うときのための布石として、不問に付したのです。結果、いまなお後遺症に苦しむベトナム戦争(アメリカの北爆開始1965〜1975)の「枯れ葉剤」など、実戦に使用されています。

     *参考資料:『細菌戦が中国人民にもたらしたもの』日本軍による細菌戦の歴史事実を明らかにする会/明石書店、『ミドリ十字と731部隊』松下一成/三一書房、『731免責の系譜』太田昌克/日本評論社、『731の生物兵器とアメリカ バイオテロの系譜』ピーター・ウイリアムズ、デヴィット・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳/かもがわ出版、『731』青木冨貴子/新潮社、『毒ガス戦と日本軍』吉見義明/岩波書店、『毒ガスと科学者』宮田親平/文春文庫

     なお、唯一インドのラダビノド・パル判事だけが日本の無罪を主張したとされる東京裁判に関し、インド人のM・K・シャルマ氏はその著『喪失の国、日本 インド・エリートビジネスマンの「日本体験記」』(文春文庫)で、インドにおける理解は「(パル)氏が(無罪の)論拠としたのは日本の正当性に関してではない」「このような違法な裁判において被告(日本)を裁くことはできない、ゆえに全員無罪であるという論理に立っている」のであり、「パル氏の無罪の主張をあたかも日本の正義を保証するものとして理解している」のは日本の曲解であるとして批判しています。

     2007年8月23日、安倍晋三首相(当時)がパル判事の長男であるプロシャント・パル氏を訪ねています。日印(あるいはパル判事と、“A級戦犯容疑者”“昭和の妖怪”“CIAのスパイ”など数々の肩書きを持つ祖父である岸信介と)の友好関係をアピールするのが目的のようで、実際にはパル父子を引き合いに出して「日本の無罪」をクローズアップするためのパフォーマンスですから、さぞやプロシャント・パル氏も複雑な気持ちで迎えたことでしょう。

     *参考資料:『パル判事』中里成章/岩波新書、『満州と自民党』小林英夫/新潮新書

    中國茶倶樂部「龜僊人窟」主人 池谷直人