どうでもいいけどひっかかる
日本における中国茶用語の読み方(1)
まず、私事ながら、香港での生活も20年を越えました。したがって、確かに日本の事情には疎くなったことでしょう。ただ、“ものかき”という仕事柄(細々ですが)、また、香港人に日本語を教えるという立場上(プライベートレッスンですが)、さらに、かえって海外在住という身ゆえ、日本語へのこだわりは、おそらく日本に住む日本人より、強いかと思います。
そこで、香港で出逢い、これまで続けてきた中国茶とのかかわりから、日本における中国茶用語の読み方について、「ひっかかる」点を挙げ、調べかつ考えてみました。「どうでもいい」とは、「全体からみればさほど重大な問題ではない」との意味です。とはいえ、すっきりしないのですっきりさせたい、というわけです。
第1回目は「金萱」を取り上げます。
このお茶は、台湾の行政院農業委員会茶葉改良場(日本の農林水産省茶業試験場に相当)による交雑育種の結果、「台農8号」を母、「硬枝紅心」を父として、1981年につくられた品種です。ミルキーな香りがすることで知られています。
お茶なのにミルキーな香りがするのは、肥料に尿素(化粧品にも使われている成分です)を施すためです。その量によって激しく臭うものから優しく匂うものまであり、何種類か取り揃えている茶舗もあります。最近ではスプレーでフレーバードされたものもあり、注意が必要です。
が、金萱のすべてが尿素を施されるわけではありません。2006年11月に訪れた、阿里山で金萱を栽培する許添達氏は、肥料として落花生の殻を使う、と話していました。いわゆる有機栽培です。それでも(あるいは、それゆえ)、金萱の品評会で多くの入賞経験を持つのです。
金萱は本来、品種の名前です。金萱茶、金萱烏龍(産地の名前を冠した阿里山金萱、拉拉山金萱なども)という品種名をそのまま商品名にした烏龍茶もつくるし、包種茶(文山包種など)もつくります。後者の場合、商品名から品種名はわかりません。
ちなみに、文山包種は主に青心烏龍(軟枝烏龍とも)という品種でつくられるほか、金萱でも翠玉(金萱と同様、茶葉改良場によって「硬枝紅心」を母、「台農80号」を父として1981年につくられた品種)でもつくられます。過去に何度か訪れている、文山包種の産地である台北県坪林郷で、品評会常連入賞者の梁祥島氏が栽培した、上記3種類の文山包種を喫み比べたことがあります。それぞれ味、香り、風味が異なり、翠玉でつくられたものには硬い甘さ、金萱でつくられたものには柔らかい甘さ、すなわち、ミルキーの香りの面影が感じられました。
茶葉の説明が長引いてしまいました。ここからいよいよ本題です。
さて、「金萱」は何と読むのでしょう? 通常は一般に「きんせん」と読まれています。しかし、漢和辞典を引いても「萱」に「せん」という読み方はありません。では、なぜ「きんせん」と読まれるのでしょう? くさかんむりのない「宣」を「せん」と読むので、そこから類推したものと思われます。せっかちな日本人がよく調べもせずにそう呼びはじめたのかもしれません。現代の標準中国語の音はどちらも「xuan〈第1声〉」で同じです。日本の植民地統治下で生まれ育った台湾人のお茶屋さんが、達者な日本語で最初に「きんせん」と呼んだのが定着したのかもしれません。
「萱」の音読みには「かん」(呉音)と「けん」(漢音)があります。一概にはいえませんが、呉音は仏教関連用語に多く使われるので、ひとまず「かん」を除くと、漢音が残りますから、「金萱」は「きんけん」と読むのが妥当と考えられます。
言葉は生き物です。辞書が絶対というわけではありません。
いまさら「捏造」「漏洩」の正しい読みは「でつぞう」「ろうせつ」で、「ねつぞう」「ろうえい」は誤り(慣用読みとして認められています)といわれても困ってしまいます。「施行」「情緒」は正しい「しこう」「じょうしょ」も、誤り(慣用読み)の「せこう」「じょうちょ」も同じくらいの頻度で使われる気がします(国語辞典の見出しでは「しこう」「じょうちょ」が優先されています)。
もっとも、「重複」はやはり「じゅうふく」ではなく、「ちょうふく」と読みたいと思います(パソコンではどちらで打ち込んでも表示されるものの、国語辞典の見出しでは「ちょうふく」が優先されています)。「ちょう」の音は「かさなる」の意、「じゅう」の音は「おもい」の意、と区別がありますから。現代の標準中国語でも、前者の意のときは「chong〈第2声〉」、後者の意のときは「zhong〈第4声〉」、と発音が異なります。
さて、ここで再び「金萱」の話に戻ります。
以上みてきた熟語は、正しい読みであれ慣用読みであれ、漢字ひとつずつには両方の読みともあります(例えば「重」には「ちょう」の読みも「じゅう」の読みもあります)。ひるがえって、「萱」には「けん」はあっても「せん」はありません。つまり、「きんせん」は慣用読みにすらなる資格のない、たんなる誤りでしかない、ということです。
「病膏肓」の「やまいこうこう」を誤読した「やまいこうもう」もありますが、その場合「肓」を「盲」に変更して「病膏盲」とするため、読みに問題はありません(漢字の意味を考えると変ですが)。同様に「独擅場」の「どくせんじょう」を誤読した「どくだんじょう」も「擅」を「壇」に変更して「独壇場」としています。しかし、だからといって「金萱」(きんけん)を「金宣」(きんせん)に変更してしまうことはできません。「金萱」は「きんけん」なのです。
いまなら間に合います。「土地」は「とち」なのに「地面」は「ぢめん」ではなく「じめん」と書き換えたり、「高嶺の花」を「高根の花」と書き換えたり——そんな間抜けな日本語と一緒にしないよう、「金萱」は「きんけん」と呼ぶことにしましょう。美しい日本語を残すためにも。
参考辞典(出版年順)
国語辞典
1.角川国語辞典(1978年)
2.三省堂新明解国語辞典(1987年)
3.講談社日本語大辞典(1989年)
4.小学館現代国語例解辞典(1993年)
5.角川必携国語辞典(1995年)
6.新潮国語辞典 現代語・古語(1995年)
7.小学館大辞泉(1998年)
8.大修館明鏡国語辞典(2002年)
9.ベネッセ表現読解国語辞典(2004年)
漢和辞典
1.角川漢和中辞典(1979年)
2.三省堂新明解漢和辞典(1982年)
3.学研漢和大辞典(1992年)
4.小学館現代漢語例解辞典(1993年)
5.岩波新漢語辞典(1994年)
6.三省堂五十音引き漢和辞典(2004年)
7.三省堂全訳漢辞海(2006年)
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中國茶倶樂部「龜僊人窟」主人 池谷直人