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日本における中国茶用語の読み方(4)

どうでもいいけどひっかかる

日本における中国茶用語の読み方(4)

 第4回目は「正山小種」を取り上げます。

 「正山小種」は「Lapsang Souchong」か?

 正山小種(せいざんしょうしゅ)は中国紅茶です。確かに英国式の紅茶の世界ではLapsang Souchong(ラプサンスーチョン)と呼ばれています。産地は福建省の北部に位置する武夷山です。そこはまた岩茶の産地としても知られており、さらに世界遺産にも指定されている、風光明媚な場所です。

 正山小種の発音は標準中国語で、それぞれ正「zheng」山「shan」小「xiao」種「zhong」。意味で区切れば正山「zhengshan」小種「xiaozhong」です。中国語の発音が訛って英語と化したといわれるので、英語のLapsang Souchongと対照させてみると、小種「xiaozhong」と「Souchong」は音が近いとわかります。ところが、正山「zhengshan」と「Lapsang」とでは、山「shan」と「sang」は近いものの、正「zheng」と「Lap」は遠くかけ離れています。「正」が「Lap」とはどういうことなのでしょうか?

 福建省のお茶なら福建語の音で対照させてみないと意味がないのは当然です。そこで、調べたところ、「正」は「cheng」または「chia」です。前者は標準中国語の音に通じます。後者は標準中国語にも似ていません。そして、どちらも「Lap」とは似ても似つきません。

 例えば、「白毫」(はくごう)は福建語で「peh ho」で、それが英語の「pekoe」に転訛し、「オレンジペコー」などという際の紅茶用語「ペコー」になったり、同様に「武夷」(ぶい)も「bui」から「bo hea」へと転訛したもので、ジョン・コークレイ・レットサムも1772年刊の『茶の博物誌 茶樹と喫茶についての考察』(滝口明子訳 講談社学術文庫)で使っていたり、これらは近いし似ているし納得がいきます。しかし、「正」と「Lap」の関係はやはりわかりません。

 ここでさらっと福建語といったものの、ひとくくりにできる言語ではありません。中国の方言のひとつで、言語学的に「閩語」といわれます。「閩」はもともと福建地方のことを指します。大きく分けると閩北語と閩南語に二分されます。細かく分けると閩東語(福州中心)、閩南語(厦門中心)、閩北語(建甌中心)、閩中語(永安中心)、莆仙語(莆田中心)に五分されます。武夷山は閩北語圏です。ちなみに、台湾は閩南語圏に含まれ、台湾では「台湾語」とも称します。

 中国で「七大方言」といえば、閩南語は入りますが、閩北語は除かれます。また、「八大方言」まで拡大されれば閩北語も入りますが、南北に二分された場合には閩北語は福州語に代表されます。福州語はややこしいことに、それぞれ大分類では閩北語、細分類では閩東語(つまり、閩東語は閩北語の一部)に分類されるわけです。

 07年夏、3度目の武夷山を訪れ、初めて正山小種発祥の地といわれる星村鎮の桐木村にまで足を延ばしました(香港の茶舗、祺棧茶行では正山小種を「星村小種紅茶」という商品名で売っています)。一般に開放されている観光地よりもはるかに奥まったところです。渓流がより細くより早くなり、一段と自然が野生を剥き出しにします。検問を通過するときにはいささか緊張したものの、その先は大地の懐に包まれる心地よさが感じられました。

 ようやく山里の製茶工場に辿り着くと、裏の竹林が風にそよぎ、ざわめいていました。そこで供された正山小種は、ひとくち含むや龍眼の果汁のごとき味わいが拡がるではありませんか。味見させてもらったものは芽ばかりを摘んだ「金俊眉」という献上用の非売品。購入できるのは芽を多く含んだ、ひとつ下の等級に分けられる「銀俊眉」からですが、それでも十分に甘く香ります。

 正山小種は松の木で燻してつくります。したがって、松の香りがします。香港(および中国、台湾)で使われる竹ひご状の線香は、その成分を松やにで竹ひごに練りつけてあるので、火を点けると正山小種と同じ香りがします。現地で喫んだものもほんのりと松の香りが感じられました。

 ただ、一般に中国茶ショップや紅茶ショップで買えるものは、その香りが強烈で、多く正露丸の臭いに譬えられます。『現代紅茶用語辞典』(日本紅茶協会編 柴田書店)でも「松の煙香が強い特殊な紅茶」と解説されています。

 最上級の「金俊眉」から等級外の「煙小種」(仮小種とも)まで、全7種類をテイスティングしました。龍眼の果汁のごとき味わいは上級のものだけで、松の香りは等級が下がるに連れて強さを増していきます。

 同工場の社長によれば、正山小種とLapsang Souchongは別物。「前者は龍眼の果汁のごとき味わいのある地元消費用、後者は敢えて松の香りを強烈に着けた海外輸出用」とのことです。「かつて中国から正山小種を運ぶのに船で1年も2年もかかったため、強めに燻さないと味も香りもヨーロッパへ着くまでに抜けてしまう」からであり、ヨーロッパの人々にとって長年、喫み慣れた強烈なものが、現在も中国で同じようにつくられ、輸出されているのです。

 なお、正山小種の「正山」とは「まさしく高山」の意で、その「高山」とはここ「桐木一帯」を指し、また「小種」は「紅茶」の意ですから、「桐木で産出された紅茶」ということになります。一方、「正山小種」に対して「外山小種」(人工小種とも)もあり、「桐木以外の地区で産出された紅茶」ということで、質が落ちるものを指します。

 正山小種とLapsang Souchongが別物であることはわかりました。とはいえ、「正」と「Lap」の関係は依然としてわかりません。

 『武夷正山小種紅茶』(鄒新球主編 中国農業出版社)に次のような記述を見つけました。

 ——武夷正山小種紅茶が福州の港から輸出されたことから、国外では福州方言による正山小種の発音「Lapsang Souchong」で呼ぶようになった。福州方言では「松明」を「Le」と発音し、「松材で燻し焙る」を「Le Xun」と発音する。松材で燻し焙った正山小種紅茶なのでLe Xun小種紅茶となった。Lapsangの音はLe Xunからきた音だ。——

 なるほど、「正」と「Lap」が対応しているのではなく、「Lapsang」と「Le Xun」の音が近くて似ている、というわけだったのです。これならおおむね納得できます。ただし、香港で福州出身者を探し出し、実際に「松」や「燻」を福州語で発音してもらったものの、サンプル数が1人と少なすぎのためか、「Le Xun」の音は聞かれず、残念ながら有意な結果は得られませんでした。現地調査をしなければなりません。今後の課題です。

 また、この正山小種が紅茶のはじまりでもあるとされています。『武夷正山小種紅茶』によれば、紅茶がつくられるようになった、すなわち、醗酵(酸化)技術が導入されはじめたのは、明代の16世紀中後期〜17世紀初め、とのことです。

 よく知られた正山小種誕生にまつわるこんなエピソードがあります。

 ——明末のある年、お茶摘みの頃、桐木を北方の軍隊が通りかかった。製茶工場に駐留し、兵士たちは摘んだ茶葉の上に寝泊まりした。軍隊が去ったあと、茶葉は赤く変色していた。主人は慌て急いで茶葉を揉み、赤松の薪を焼べて乾燥させた。すると、茶葉は黒くて艶やかで、松やにの香りがした。緑茶を飲み慣れた当地では、そんなお茶は飲まれない、と遠く離れた星村の市場に売りに行ったところ、思いがけずも翌年になって2、3倍の価格で買い付けたいとの話が舞い込んだ。それ以降、この製法に基づいたお茶づくりが盛んになった。——

 中国からヨーロッパへと最初に輸出された紅茶も正山小種とされています。『武夷正山小種紅茶』では、1610年にオランダ東インド会社が初めてバンタム(ジャワ)で、厦門の人が運んできたお茶を買ってヨーロッパへ持ち帰った、としています。

 『年表 茶の世界史』(松崎芳郎編著 八坂書房)によると、同年同社が長崎の平戸からバンタム(ジャワ)経由で持ち帰ったお茶は日本のお茶だった(大石貞男説)、とあります。もっとも、それが「最初にヨーロッパへもたらされた日本茶」というだけで、「最初にヨーロッパへもたらされたお茶」とはいっていません。

 また、『茶の世界史 緑茶の文化と紅茶の社会』(角山栄著 中公新書)では、同じ事象の記述の中で「これがヨーロッパへもたらされた最初のお茶であるといわれている。もしそうだとすれば、ヨーロッパ人が最初に知った茶は日本の緑茶であったということになる。」としています。

 このほか『年表 茶の世界史』では、1607年「オランダ船が澳門(マカオ)から中国茶を運びこれが欧州に販売された。中国の茶がヨーロッパに直接量的にまとまって売られた最初の記録という。(『飲茶漫話』)」、あるいは、1602年「オランダ東インド会社設立し、明国の茶及び茶器をヨーロッパに紹介しはじめる。(『茶業通史』)」、などとしており、正山小種かどうかはさておき、1610年以前に中国のお茶がヨーロッパへ伝わっていたようです。

 さらには、1600年「オランダで中国の茶樹を試植したが失敗したとテネント(J.E.Tennent)は記している。」ともしていますが、これは飲用目的だったのでしょうか、それとも観賞目的だったのでしょうか。

 ちなみに、お茶がヨーロッパにもたらされたのではなく、お茶をヨーロッパ人が目にしたのは、1517年「ポルトガル人が海路広東に渡来し、飲料たる茶を知ったという。ヨーロッパ人が茶を知った最初とされる。(『栽茶与製茶』)」とあります。

 いずれにしろ、その後のイギリスで、中国からきたお茶により、紅茶文化が花開いていくわけです。そして、その陰では、ボストン茶会事件(1773年)が起こり、アメリカがイギリスから独立する一因となったり、アヘン戦争(1840〜1842年)が起こり、香港が1997年の返還までイギリスの植民地に置かれてしまったり、お茶が世界を変える歴史をつくっているわけです。紅茶に罪はないのに……。

参考資料(引用順)

 1.『茶の博物誌 茶樹と喫茶についての考察』ジョン・コークレイ・レットサム=著 滝口明子=訳/講談社学術文庫

 2.『現代紅茶用語辞典』日本紅茶協会/柴田書店

 3.『武夷正山小種紅茶』鄒新球/中国農業出版社

 4.『[年表]茶の世界史』松崎芳郎/八坂書房

 5.『茶の世界史 緑茶の文化と紅茶の社会』角山栄/中公新書

同(その他)

 1.『東方台湾語辞典』村上嘉英/東方書店

 2.『中国茶経』陳宗懋/上海文化出版社

中國茶倶樂部「龜僊人窟」主人 池谷直人